目次 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 14, 2022 👆前のページ「序」👆 平安朝歌論研究 序Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点 一 公任歌論の基底と頂点 序 二 余情論の先駆 三 公任の余情論 四 公任歌論の頂点 五 公任歌論の基底 六 姿〈きよげ〉の論Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 一 俊頼と基俊の対立 1 序 2 歌論の対立(1) 3 歌論の対立(2) 二 基俊歌論 1 〈心〉の論 2 〈詞〉の論 3 秀歌論 三 俊頼歌論 1 〈心〉の論 2 〈詞〉の論 3 秀歌論 四 中世歌論の二つの源流 1 〈新・旧〉歌論の対立 2 俊頼歌論と中世歌論 3 基俊歌論と中世歌論👇次のページ「Ⅰ部 平安歌論の基底と頂点 一 序」👇 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
平安朝歌論研究 序 12月 14, 2022 この稿は二部構成をとり、Ⅰ部では、十世紀末から十一世紀前半にかけての著名な歌人であり歌壇の指導者でもあった藤原公任の歌論を論考し、Ⅱ部では、平安後期歌壇の両雄というべき源俊頼と藤原基俊の歌論とその対立の意味を勘案する。 公任は『古今集』成立後百年足らずして登場するが、その公任の歌論を古代和歌の歌論的完成と成熟という視点から取り上げたい。 平安後期の和歌は、いわば古代和歌の行き着いたところという意味合いを持っているが、その実相を俊頼・基俊両者の歌論とその相違対立を通して照らし出したい。これには、さらに、新旧歌論の対立であるとされている俊頼・基俊の対立の歌論的根拠を明らかにすることによって、一般的に存在する新旧文学論上の対立の理路を把捉し、その対立を、喧嘩両成敗的にでなく、普遍的に解き明かしたいとする筆者の主観的な問題意識が存することも、蛇足ながら付言しておきたい。 👇 次のページ「目次」 👇 続きを読む
Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点 六 姿〈きよげ〉の論 4月 28, 2024 👆 前のページ「Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点 五 公任歌論の基底」 👆 ⇦「目次」へ 『和哥九品』と較べて、『新撰髄脳』は秀歌の条件などの記述が多く、公任歌論を窺うには欠かすことはできない。 『新撰髄脳』の歌論的意味については、〈心〉と〈詞〉に加えて〈姿〉をはじめて立言したこと(注1)、歌の評価は時代によって変わりうること、歌病論の教条性を棄てたこと(注2)など、従来言われてきた。 この書は、まず、「うた」は五七五七七の三十一文字からなると、初学者のための実作理論書らしさを窺わせる記述に始まり、 凡そ歌は心ふかく姿きよげに、心に お ( を ) かしき所あるを、すぐれたりといふべし。 と、和歌本質論を続けている。これは、秀歌の条件として、(a)心深く、(b)姿きよげ、(c)心にをかしき所ある、の三つが考えられているとみてよい。 次に、実作する際に当面する問題について、どう考えればよいかの、いわば、いわば詠作手法と言うべき論を述べている。 事おほく添へくさりてやと見ゆるが〔いと〕わろきなり。一すぢにすくよかになむよむべき。心姿相具する事のかたくは、まづ心をとるべし。終に心ふかからずは、姿をいた わ ( は ) るべし。その かたち ( 〔すがた〕 ) といふは、うち〔聞き〕きよげにゆ へ ( ゑ ) ありて、歌と聞こえ、もしはめづらしく添へなどしたるなり。 ( 『新撰髄脳』 ) 「心姿相具する」云々以下のセンテンスは、実作上の具体相として、(1)心姿相具するもの、(2)心ふかきもの、(3)姿をいたはるもの、の三つの段階をあげていることになり、これはそのまま、歌の優劣を見定める基準と読み替えても差し支えないと思われる。 また、(1)の「心姿相具するもの」とは、詳述すると先の(a)(b)(c)の条件を満たすものと考えられているようだ。この条件をすべて満たしていると考えられる歌が、『和哥九品』の上上及び上中の〈あまりの心〉ある歌ということになろう。上下は、「心ふかからねどもおもしろき所ある也」と評しており、心姿相具しているけれど〈あまりの心〉にどうしても欠ける、と読みとっても良さそうである。 それはともかく、公任歌論を見てゆく上で落とすことが出来ないのは、〈あまりの心〉の他に、「心に お ( を ) かしき所ある」「めず 続きを読む
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