Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 四 中世歌論の二つの源流 1〈新・旧〉歌論の対立






👆前のページ「Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 三 俊頼歌論 3 秀歌論👆

⇦「目次」へ 

  

 元年内大臣家歌合

  時雨 一番 左(摂津公)両判勝

夜もすがら嵐の音にたぐひつつ木の葉と共に降る時雨かな

   俊 心も詞も珍しからねど、させる難見えず

 基 木の葉とともに降る時雨かなと、心にしみてをかしう思ひ給ふる

 これも、すでに何度か取り上げた個所ではあるが、両判が一致して勝にしているにもかかわらず、その歌論的根拠はかなり相違している。

 一晩中、嵐の音に伴って落葉の音が時雨の音と分かち難く聞こえてくる。それだれでも寂寥感を掻き立てられるのに、それを聞いている人は、つれない人を恨んでめざめているのか、よそにのみ見る恋に苦悩しているのか……というふうに、この歌の世界(物語的現実)にのめり込んでいるのが基俊である。されに対して、そのようには歌の世界にはいって行くことはできない、歌をそのように読んだり評したりすることはできない、このような歌は約束された詞と心のバリエーションにすぎないし、和歌の世界の固陋涸渇に陥ってしまうというふうに観ているのが俊頼である。

 

 同歌合 時雨 三番

  左 俊勝

時雨には色ならぬ身の袖笠も濡るれば薫るものにぞありける

  右 基勝

冬來れば散り敷く庭の楢の葉に時雨おとなふみ山邊の里

 

 俊頼は、「色ならぬ身」という表現が、衣服の色が白いと言っているのか色好みでないと言っているのか判然としないと指摘しながらも、右歌の「古き歌を悪しざまに取りなした」ものよりはまだましであるとしている。さらに、「敷く庭の楢の葉」では、意味の流れと表現の流れがくい違っている、とその表現上の難点もあげていた。

 一方、基俊は、俊頼が表現上の欠点としてあげた「色ならぬ身」という表現について、「いかなる身にかとゆかしく」と一点の疑問も感じず、歌の物語的現実にひかれてゆくことを述べながら、しかし、「濡るれば薫る」のは「梅」であると古来詠みならされているので、それを犯しているから負にしていた。

 

 この二つの番の判詞は、俊頼・基俊の歌論とその対立をあざやかに示している。

 表現上にたとえ多少の難点があっても、「めづらしき」心を詠もうとする意欲的な歌が、言いならされ詠い古されたままの心を詠った歌より数段勝るというのが、俊頼の判詞にあるモチーフであり、俊頼の歌論が新風志向であるゆえんでもある。〈詞〉に関する指摘も、本文証歌からするものではなく、表現の合理性を求めることを特徴としている。

 基俊の判詞の特徴は、「色ならぬ身」という詞が、即座に、ある物語的現実を喚起するという点に見出される。さらに、「濡るれば薫る」ものは「梅」であるとする指摘は、俊頼とは対照的に本文証歌が和歌固有の意味や像を付与しているからであり、またその詞によって詠まれる歌材も同様に和歌固有の属性を有しているからである。従って、約束外の詞、花材の本意を外れた心は、和歌の世界(歌境)の成立する根拠基盤を否定することになり、物語的現実を喚起することはできない。以上のような基俊歌論からみれば、「まだ見侍らぬ」とか「近極近俗」というような評言を頻出して論難するのも当然であり、基俊の歌論が保守歌論であるゆえんである。

 

 ところで、この俊頼と基俊の〈新旧〉歌論の対立は、平安後期ないしは古代末期の歌論史のなかで、どのように意味をもっているのだろうか。 関根慶子氏(前出論文)は、

 俊頼基俊の歌論的対立は、従来、ともすると、主觀的客觀的の語をもってなされた。(「歌論史摡説」峯岸文人氏等)


と従来の通説を述べられ、しかし、「基俊が常に本文証歌を求め、歌病を指摘し、題意の当否を問うたこと」が必ずしも、基俊歌論の客観性を立証することにはならないとされる。なぜなら、「素材的合理性を求めることは、主觀的に立脚する場合も多いことを、共判歌合の実例をあげて述べられている。以下、さらに引用してみる。

 判決に求める合理性は、必ずしも絶対的な客觀的妥当性を有するものではなくて、その判決は各人の主觀にかかるという結論を導く。而して、本文証歌を求めることも、他面から言えば古例古式に依ることである。それに、本文証歌素材的合理性を求めたことは、俊頼に於いても十分認められるのであるから、俊頼を主観的とのみ は呼びえず、主觀客觀は程度の差となってもどってくるであろう。上来述べ来つた觀点からしても、結局、両者の歌論的対立は新旧の名を以って呼ぶのが最も当を得て、端的にその性格を表すものとなろう。


 俊頼基俊の歌論的対立は、主観客観の対立ではなく、新旧歌論の対立であると結論づけられている関根氏の論は当を得ていると言わねばならない。さらに、先の引用に続けて、この両者の対立の歌論史的意味を次のように論じられている。


両者の対立は、次期の偉大な歌人俊成を得てみごとに統合されるのであるが、その前奏の時期として、まことに意義深いものがある…(中略)…又、俊頼の新風歌論に於ける「珍しさ」の主張は、それ自身として一定の方向を指導することにはならなかったが、これによって歌壇は活気を呈し、彼自身は自らの目を見開いて、歌論の上では、表現について、歌病觀間について、あるいは、万葉觀について、それぞれ進んだ見解をとらせるに至ったのである。 


  しかし、はたして、基俊は旧、すなわち、旧態依然とした歌論だと言ってしまえるのだろうか。そして、両者の対立は、単に、その基俊と「新風志向」の俊頼の対立であると言えるものであろうか。この点については、俊頼がこの対立を「統合」したとされているが、その具体相も理路も示されておらず(もちろん、関根氏のこの論文の主題を外れることであるが)、両者の対立が、結局、非和解的な平行線を辿らざるをえない対立のように考えられているように見受けられる。また、俊頼歌論の「新風志向」は、「表現について、歌病觀について、万葉觀について、それぞれ進んだ見解を取らせ」ることになったが、「それ自身として一定の方向を指導することにはならなかった」と言いうるのだろうか。

 

 俊頼と基俊の歌論的対立が、単に、非和解的な平行線を辿る対立ではなく、俊頼歌論を媒介して、中世歌論の源流となりえていることを考察するには、関根氏の「新旧の対立」の論を再措定し、その「対立」を相対化してみる必要がある。


👇次のページ「Ⅱ部 中世歌論の二つの源流  2 俊頼歌論と中世歌論👇 

⇦「目次」へ






コメント

このブログの人気の投稿

平安朝歌論研究 序

目次

Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  二 余情論の先駆