Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 四 中世歌論の二つの源流 2 俊頼歌論と中世歌論

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 まず、俊成の歌論を窺うきっかけとして、俊成が和歌というものをどのように観て、いかように考えていたのかを歌合の判詞から考察してみる。


 承安二年十二月八日 廣田社歌合
  社頭雪 三番
   左      太皇太后宮小侍從
とくる間も積るもえこそ見えわかね豐御幣にかかるしら雪
   右勝
山藍もて摺れるころもに降る雪はかざす櫻の散るかとぞ見る


左、白妙の御幣に雪をかけて、とくるも積るも分ち難からん心、いとをかしく侍るを、右の摺れるころもに雪を帶びて、かざしの花にまがへられて侍る心姿、いと珍らしく艶に見え侍る上に、左は、さきにも侍りつる句の初めの文字も、毛を吹くにや見え侍れば、右をもて勝と爲す。


 俊成の判決のポイントは、左歌の「白い御幣だから、雪が解けても見分けがつかない」という着想を、「いとをかしくは侍る」としながらも、左歌を「いと珍らしく艶に見え侍る」として、「をかし」より「珍らし」を上位に置いていることである。左歌のような着想は、古今集以来すでに使い慣らされていて、むしろ着想とも言えないものであろう。この左歌に対する評言「いとをかしくは侍る」は、恐らく、左歌が、「社頭雪」という題の心をよく心得、過も不過もない詠みぶりをしている、と評していると考えた方がようようだ。ほかの歌合の判詞をみても、俊成は、たとえ難点があっても、一応どこかを評価するというようなやり方をとるのがふつうである。
 その左歌に対して、右歌への評価ははるかに積極的である。「山藍もて摺れる衣」に降りかかる雪を、「かざしの櫻」に見紛ってしまうという着想を、俊頼は、「珍らし」と評しており、さらにその叙景が景として「艶に見」えるとしているのである。

 さらに、注目に値するのは、題心からみれば、左歌はよくふまえており、右歌はむしろ外れすぎていると言うべきである。それなのに、あえて左歌を勝にしていることは注目してよい。また、左歌の文字病について、「毛を吹くにや見え侍れば」と、ほとんど歌病論の教条性を棄て去っている。

 以上のような俊成の判詞が、俊頼の「新風志向」や〈詞〉の論の延長上にあることは、多言を要しないだろう。古歌のままの心詞、言い慣らされ詠い古された着想趣向そのまま詠んでも、感興を喚起することはできない。それらを「珍しく」とりなしてはじめて秀歌は可能になるのだ、という俊頼歌論を敷衍したところに、この俊成の「珍らし」さを評価する判詞が成立していると考えるのが自然である。だから、「それ自体(注…「珍らし」の主張)として一定の方向を指導することにはならなかった」(関根氏)ことにはならないとすべきであろう。また、付言するなら、歌病の教条性を棄て、「聞きよきにつけ」云々すべきだとした俊頼の〈詞〉の論も、「毛を吹くにや見え侍」として、歌病論の教条性を棄て去っている俊頼と連続していると考えるべきである。


 また、目をひくのは、俊頼・基俊に共通する「文字つづき」についての関心の強さ深さである。俊頼は今までみてきたように当然のこと、俊成の場合も、いちいち例をあげるまでもなく頻用した評言である。一例だけ、同じ歌合からあげてみたい。

  海上眺望
   左勝       頼実
はるばると御前の沖を見わたせば雲居にまがふ蜑のつり船
   右
沖へゆくわれをもともに眺むらん霞みわたれる遠のうら人

左歌、文字續きうるはしくくだりて、雲居にまがふ蜑の釣船といへる末の句も、いとよろしき歌とこそ聞え侍れ。右歌は、心ありてをかしくは聞え侍るを、沖へゆくわれもと侍るや、船なくてゆくとはいかがと覺え侍らん。歌様はをかしくも侍れど、歌合の時は姿を先にして難を除くことなれば、なほ左の勝にや見え侍るめり。

 「文字續きうるはしくくだりて」とは、恐らく、俊頼の場合と同様、意味(心)の流れと表現(詞―文字續き)の流れがうまく対応して「くだ」っており、しかも、過も不過もないこの歌の表現を評していると考えても、俊成の意図を大きく踏み外すことにはならない。さらに付言するなら、この「文字續き」は、「ことばつづき」とともに、中世の歌合判詞、歌論に頻用されるようになり、更に、連歌の「カカリ」という用語、能の「女かゝり」「節かゝり」という用語に流れこんでいて、注目に値する評言である。
 
 〈詞〉に関する俊頼の論は、心を的確に表すことのできる合理性、過不足のない表現を求めたことは、すでに論じた。これはまた、常に証文本歌を求め、「古歌に見えず」「近極近俗」な詞を厳しく斥けた〈詞〉の論とは対照的であることも見てきたとおりである。この基俊のリゴラスな典拠主義に対して、すでにそのころ、旧来の考え方に満足できず、

歌は同じ詞なれど続けがら、いひがらにてよくもあしくも聞ゆるなり(長明『無名抄』)

というような観点をもつ人が、俊頼だけではなく、かなり存在していたと考えられる。しかし、歌の詞の良し悪しは、証文本歌によってではなく、続け方によって、歌の出来不出来によって決まるのであるとする〈詞〉の論を、本格的に歌論のライト・モチーフとして論じたのは、俊頼を嚆矢とするとかんがえてよい。この俊頼の歌論は、俊成を経て、関根氏が指摘されている通り、定家の〈詞〉の論に敷衍整理されているのである。

すべて詞にあしきもなく宜しきもあるべからず。ただ続けがらにて歌詞の勝劣侍るべし。(『毎月抄』)



 最後に、俊頼の「新風志向」が、定家によってどのように敷衍展開されているかを論じておきたい。

詠みのこしたる節もなく、つづけもらせる詞もみえず。いかにしてかは、末の夜の人のめづらしき様にもとりなすべきか。よく知れる人もなく、よく知らざるもにし。よく詠めるもなく、よく詠まざるもなし。詠まれぬとも詠み顔に思ひ、知らざるをも知り顔にいふなるべし。(『俊頼髄脳』)

 平安後期ないしは古代末期、俊頼に限らず、先鋭な歌人の中には、これと同じような認識を持った層が確かに存在していたと思われる。なぜだかわからないが、歌を詠んでも古歌より優れたものはできないし、詠もうと思う心も詞も狭隘に感じられてならない。古歌は古歌として読めば優れていることは間違いないが、古歌の心そのまま詠んでみても陳腐にしか感じられない。なぜだかわからないが、和歌はそのような現在(情況)に立ち至ったのである。

 このような和歌の閉塞は、実は、証文本歌を求め、本意を墨守し、歌病の教条性に縋る、旧来の歌観=歌論を根拠にしていたのであり、俊頼は、はじめてその突破口に向かって、自覚的に本格的に論じたのであった。

 このあたりの事情が定家によってどのように敷衍展開されたのかをみるには、次の引用が最も適当である。

情以新為先(求人示詠之心詠之)、詞以旧可用(詞不可出三大集先達之所用。新古今古人歌同可用之。)(『詠歌大概』)

詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて(『近代秀歌』)

 中世歌論の頂点を形成している定家のこの論が、俊頼の、古歌の心や詞はそのままに詠むのではなく、それらを「珍しく」とりなして詠むべきであるとする、古歌の位置づけと「新風志向」とに連続していることは、俊頼歌論の歌論史上の先駆性を物語っている。

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