Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 四 中世歌論の二つの源流 3 基俊歌論と中世歌論

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 一方、リゴラスな典拠主義歌論をもつ基俊は、歌論史上、とりわけ、中世歌論にとって、どのような意味を持つのだろうか。ここで結論めいたことを言っておくと、歌を詠むということが、どのような作為なのであるかという基俊の歌観=歌論が、古代和歌と歌論の最後の完成であり、その延長線上に中世歌論と連続する。

 

 公任歌論は、古代和歌が古今集で体系化されたあと獲得してきた表現水準の確認となり、「餘の心」「姿きよげ」など、和歌の辿るべき路を一定の方向に導いて、古代の歌を完成純化させたことは、すでに論じた(「Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点」)。その後、その完成を更に純化させるか、それともそれを桎梏と感じるかの、二手に分かれたようである。この二つの感じ方は、完成されたものに対する、個人の資質に帰せざるをえないような、普遍的な反応のように思える。俊頼が後者の路に立たざるを得なかったとすれば、基俊は前者の路を辿ったことになり、そのことが、基俊がリゴラスな典拠主義者として立ち現れたゆえんでもある。

 

 基俊がなぜかくも証文本歌に固執し、新語綺語を厳しく斥けなければならなかったのかは先に述べた―歌を詠むとは、歌の詞を媒介して心を喚起し物語的現実に逢着する作為である。なぜ、そのような作為が可能なのか。それは、本文・古歌によって、〈詞〉は単なる詞ではなく和歌固有の意味や像をもって、心を喚起するからであり、そこにこそ和歌の世界(歌境)が成立する根拠が存在する―基俊は、このような歌観=歌論を本質としていた。この基俊の歌観は、俊成―定家(中世歌論)へと敷衍されていく。

 

 廣田社歌合

  雪 六番 右勝(藤原實守)

雪ふかき御前の濱に風吹けば松の末越す沖つしら波

御前の濱に風を吹かせて、松の末越す沖つしら波といへる歌の姿、雪の面影、すでに嫉妬の心起り侍るにや

 俊成の歌合判詞には、基俊がそうであったのと同様に、歌一首一首を鑑賞的に批評するものが多く見受けられる。ここでも、俊成は、沖の白波が、雪深い社の前の浜辺の「松の末越す」ように見える景を、心に思い浮かべながら、「すでに嫉妬の心起り侍るにや」と味わい鑑賞しているようである。


 同歌合 述懐 四番 右(師光)

ゆく末にかからん身とも知らずしてわがたらちねのおほし立てけん

詞の花を飾らず、言の葉に見せて、直くいひ下されて侍れど、げにさることと聞えて、あひなくよその袂までしをるる心地なんし侍る。

 一首に詠みこまれている不遇な人の身が思いやられて、ついもらい泣きをしてしまいそうだ、というのが俊成の判詞の後半部の大意である。「さることと聞えて」という評言は、基俊の好んで使った「さもと聞ゆ」に通じて、両者の歌観が持つ方向性の同一性を計らずも示すことになっている。

 

 同歌合 海上眺望

  左持        実定

武庫の海をなぎたる朝に見わたせば眉も乱れぬ阿波の島山

  右         頼政

渡津海を空にまがへてゆく舟も雲の絶え間の瀬戸に入りぬる

左、詞をいたはらずしてまたさびたる姿、一つの體に侍るめり。眉もみだれぬ阿波の島山といへる、かの黛色遙臨蒼海上といひ龍門翠黛眉相對、などいへる詩思ひ出でられ、幽玄にこそ見え侍れ。右もまた、空にまがへてゆく舟もといへる心、深くかすめる心地して、雲の絶え間の瀬戸に入りぬらんほども、愚かなる心および難くして、勝劣明ならず。


 左歌によって、俊成の心に、「眉も乱れぬ阿波の島山」の景が結び、それとオーバー・ラップするように、引用する詩句の景に逢着しているらしい。右歌の場合も、一首の景が心に、「深くかすめる心地して」結んでいる。そして、詞(文字續)によって、なぜ、虚構の〈景〉が心に結び、あたかもその虚構の〈景〉が心に結び、あたかもその虚構の〈景〉の前に立っているかのようにおもわれてくるのか、ということを指摘しているのが、「詞をいたはらずして」(注)の件であろう。

 このような俊成の歌観については、吉本隆明氏の優れた指摘があり、俊成歌論の本質を過不足なく言い当てられている。

 心ある歌人にとって歌を詠むことが、すでに美的な感興を誘われるというよりも、現実を超えた彼岸にじぶんの心の在り処をもとのめる苦吟にほかなくなっていることを、俊成は洞察した。和歌の固定した形式の枠組はいわば存在の枠組みににている。だが歌を詠む心はその枠組を超えた彼方に、心の所在を探しもとめることににている。すでに歌を詠む心は、メタフィジックをもとめることにほかならない。(『初期歌謡論』)

 歌を詠むという作為が、表現を媒介にしてある虚構(「彼岸」)の景や心境(「メタフィジック」)を心に結ぶことだとかんがえる俊成の歌観は、基俊の歌観と深く連続していることが分かる。

 

 一方、定家が、俊頼の「新風志向」を敷衍発展させたところで、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」としたことはすでに述べた。しかし、一方、定家の歌論は、基俊―俊成の連続としても考えなければならない。次の定家の言説は、その連続なしには考えられない。


常観念古歌之景気可染心。殊可見習者、古今・伊勢物語・五撰・拾遺・三十六人集中之中殊上手歌。可懸心。(『詠歌大概』)


和歌無師。只以旧歌為師。染心於古風、習詞於先達者、誰人不詠之哉。(同前)


さても、この十躰の中、いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。きはめて思ひ得難う候。とざまかうざまにてはつやつや続けらるべからず。よくよく心を澄まして、その一境に入りふしてこそ稀によまるる事は侍れ。されば、宜しき歌と申し候は、歌毎に心の深きのみぞ申しためる。あまりにまた深く心を入れむとてねぢ過ぐせば、いりほがのいりくり歌とて、堅固ならぬ姿の心得られぬは、心なきよりもうたてく見苦しき事にて侍る。この境がゆゆしき大事にて侍る。なほなほよくよく斟酌あるべきにこそ。(『毎月抄』)

 定家は、ここで、歌という作為が何を意味するのかという歌観を、詠作する際の心得という側面から語っている。まず、基俊の典拠主義に通じると思われる古典尊重の考えが述べられ、次に、心を澄まし、詞を選んである心的な境地や虚構の景に、心を追い詰めてゆく詠作の過程を「なほなほよく斟酌あるべきにこそ」と結んでいる。吉本氏が指摘されているように、歌を詠むという作為が、単に、王朝貴族の規準的な美の類型に従って詞を選び、「美的な感興を誘」うということではなく、表現を媒介にして「現実を超えた彼岸にじぶんの心の在り処をもとめる苦吟にほかならない」という歌観は、俊成のそれだけではなく、むしろ、定家によって一層純化され深化されている。これは、基俊のリゴラスな典拠主義の連続上に、俊成を媒介にして、定家によって「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」という考えをもとに、純化完成されたものと考えられる。

 

 平安後期歌壇における俊頼と基俊の対立は、実は、古代和歌の辿り着いたところでの二つの反応であり、この対立は、俊成を媒介にして定家によって止揚されている。すなわち、俊頼の「新風志向」は、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」とする定家の論に帰し、基俊のリゴラスな典拠主義は、詠作するとは虚構の景や心境を心に結ぶことだとする俊成、定家の歌観へ敷衍純化されている。



(注)古典全書頭注「漢詩の心詞等を自由に駆使して」
   武田元治氏(『大妻女子大学文学紀要』七十七年・九・三「俊成歌論における『幽玄』について」)「細かい修辞にとらわれず」


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