Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 三 俊頼歌論 1 (心)の論

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 長治元年五月 左權中將將俊忠朝臣家歌合

  六番 瞿麥

     左                         仲正

露重みまた折れ伏して常夏の起きぬや花のあさいなるらん

     右                         道經

唐錦敷ける庭とも見ゆるかな苔路に咲ける瞿麥の花

 

 左方の方人は、右歌の「庭」と「苔路」が同心病であると主張し、左歌を有利にしようとする。それに対して、それほどまでに言うなら、左歌だって「折れ伏す」と「起きぬ」も同心病になるのではないかときり返す。歌合のあるじ(俊忠)も双方の主張に「思しわづら」って、俊頼が口を開くのを待っている様子である。そこで、俊頼が判を下す。

 

 伏すと起きぬとは同じ心とも申しつべし。また、異ざまにも思ひなしつべきことにこそ。いはば聲と響とのやうなることにや。

 

なるほど、取りようによっては「伏す」と「起きぬ」は同心病であるとも言えるし、また、しかし、そう読み取らなければ同心でないと考えることもできる。しかし、結局、そういう穿鑿は不毛である、というのが俊頼が言わんとしていることである。歌の優劣の規準はそういうところにあるのではなく、もっと別なところにあるのだ。では、どう評価すべきなのか。

 

左歌は古めかしき歌にこそ侍らめ。右歌は、たはぶれ言の詞もゆかず、言ひさしたるやうなれど、詠まむとしける心ざしも思ひ知らで、古めかしさには、などか立ちもまざらむと思給ふるばかりなり。

 

 俊頼は、「露の重みで折れ伏している常夏」という趣向も、それを「あさい」と見立てる着想も、すでに言い古され陳腐にしか感じられないと言っているのである。これに対し、右歌は、「苔路に咲く」と「瞿麥」は思いがけない取り合わせであり、それを「唐錦敷ける庭」に見立てる着想は斬新であり、たとえ稚拙な表現にしかなりえていないにしても、どうして古めかしい歌よりすぐれないことがあろうかと結論付ける。この番の俊頼判詞は、文字通り、俊頼の面目躍如たるところであろう。

 

 俊頼の「新風志向」(関根氏)をみるうえで、長治二年・俊頼女子達(無名)歌合はもっとも適当な資料の一つである。なぜなら、この歌合は、俊頼の女と師俊の婚姻後、ごく身内で設けられたものであるらしく、俊頼は他をはばからず、縦横に論じているようにみえるからである。先と同じく、「ふるめかしさ」を斥けたものを拾ってみる。

 

a、六番 秋風

   左

 まれに來る人うらめしきよひよひにいとど身にしむ秋の風かな

   右

 世の憂きを秋によそへてながむればそよとこたふる萩の秋風

 

   みな古めかしきは僻事にや

 

b、九番・雪・左

 山里は雪は消えやることぞなき道ふみ分くる人しなければ

  

aでは、俊頼の判詞は左右ともに「古めかし」くて問題にするにも足らぬと一蹴している。待つ恋の辛さのために秋風が身に沁みるというように、言い慣らされ言い古されたままに詠まれている心が「古めかし」く陳腐でありもはや何の感興ももよおさない。また、右歌は、「萩の葉に言問ふ人もなきものを來る秋毎にそよとこたふる」(嘉保二年八月郁芳香門院前栽合・敦輔王)を模しており、「そよ」の掛詞もすでに使い古されていると俊頼は評している。bでも同様に、「ふみわけてとふと申す古言にかよひて侍りためれば」と、恋人が訪れて来てくれぬ辛い身を言うのに、「山里の雪は、消えやることぞなき」というのは、あまりに常套過ぎて感興を喚起しないとする。

 

 では、逆に、「めづらしさ」を評価したのは、どういう歌であろうか、同じ歌合から抄出してみよう。

c 一番 霞 右

 葛城やつくりもはてぬ岩橋をいかでか霞の立ちわたるらむ

 

わたしも果てぬ岩橋をたちわたらむ霞は、げにむかしの人もあやむべかりける事を、躬恒・貫之いかで云ひのこし侍りけむと、めづらしさに

 

d 三番 暮春 左

 とどむべき方しなければわかれ行く春の心にまかせてぞ見る

 

 せめて惜しませたまへど、なほ思ひぐまなく過ぎ行くけしきをみて、まかせて見侍るもめづらしきさまなれば、心をやりて

 

e 十番 千鳥 右

 浦ごとに月の入り汐満ち來るればよる潟をなみ千鳥しば鳴く

 

 「葛城の中絶えた橋」は、従来は、「達せぬ恋」の序詞として意識されてきたし使われてきた。この序詞の本意を転じて春霞の叙景の中に配しているのがc である。しかも、この歌の着想をそのまま述べるように、「霞はどうして渡ることができるのだろう」という着想を詠んでいる。このような着想・趣向が、この春霞の新奇な景を形つくることになっている。このような歌こそ俊頼が庶幾した歌であったようだ。

 dでも、行く春を心としているが、行く春を惜しむと単に詠み慣らされ詠み古されたままにではなく、「思ひぐまなく過ぎゆくけしきをまかせて見る」と詠んだ「一ふし」を「めづらしき様」と評している。

 eは、万葉集の「和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴きわたる」((巻六・九一九)を本歌としていることは言うまでもない。この歌の眼目は、第一に、本歌の「鶴」を「千鳥」としたことであり、その千鳥が「鳴きわたる」のではなく、「しば鳴く」としたことであろう。こう詠み変えることによって、本歌とはまったく異なる、千鳥が「潟ごとにしば鳴」いている景が現れてくる。このような着想と景を、俊頼は「めづらしうおもしろく聞こえ侍る」と嘆じているのである。

 

 ここで、俊頼にとって、「古歌」(本歌)がどのような意味を持っているのかを考えてみたい。

 さきに、「古歌なくば極めて悪しし」と言っているように、俊頼は古歌や本意を無視したり否定していたわけではない。『俊頼髄脳』では次のような原則を述べている。

 

 歌を詠むに、古き歌に詠み似せつればわろきを、いまの歌詠みましつればあしからずとぞうけたまはる。

 

 これが様に詠みまさる事のかたければかまへて詠み合はせじとすべきなり。

 

 ここには、俊頼の古歌の取り方についての論のすべてが語られている。古歌の心をそのままに詠むのは剽窃模倣であり、古歌をとるなら、着想・趣向を工夫して古歌の心を上まわなければならない、と言い切っている。この俊頼の考え方は、基俊の、古歌は和歌を和歌たらしめている根底にあるものであり、古歌を背景としてはじめて歌の詞は「さもと聞こ」える物語的現実を喚起しうるのだとする歌観とは、まったく相違している。俊頼によれば、本文・本歌・本意が和歌の世界を支えていることはそうであるが、本文・本歌・本意のままに詠んでも何の感興も喚起することはできない。古歌は、その心や詞を用いて新しい心を形象化することによってはじめて意味を持ちうるのである、と考えられている。

 

 繰り返すことになるが、和歌の世界(歌境)が成立する基礎は、古歌により培われ洗練されてきた和歌固有の詞と心にあるという認識は、基俊・俊頼両者に共通している。『俊頼髄脳』に次のような記述がある。

 おほかた、うたをよまむには、題をよく心得べくなり。


 たとへば、春のあしたにいつしかと詠まむと思はば、佐保の山に、霞のころもをかけつれば、春の風に吹きほころばせ、峰のこずゑをへだてつれば心をやりてあくがらせ、梅のにほひにつけて鶯をさそひ、子日の松につけても心を引くかたならば千年をすぐさむ事を思ひ

 

と始まり、春・夏・秋・冬・恋・述懐・旅にわたって、題の心とそれぞれにふさわしい景物をあげ、花材の本意を詳述していく。引用の部分は、「大体、歌を詠む際は題心をよく心得るべきである。」「たとえば、春の朝、いつの間に春になったのだろうという心を詠む場合は、佐保山の霞の衣を着せて春の風に吹き顕わせるとか、霞が峰の梢に障られているので心が奥山へあこがれるとか、梅の香りで鶯を誘い出すとか、子の日の松にことよせて恋人が長生きすることを願うとか」というふうに、誠に懇切丁寧に述べあげていく。

 この書が初心者向けの作歌手引書として記述されているという性格はあるが、しかし、その性格ゆえに、和歌が成立する根拠・基盤についての認識を如実に語っていると考えてよい。そして『俊頼髄脳』はこの記述の後に続けて、

 

 おほかた、歌の良しあしといふは、心をさきとして、珍しき節をもとめ、詞をかざりて詠むべきなり。

にはじまる有名な秀歌論を展開する。この部分は、和歌の世界(歌境)が成立する根拠、基盤の具体相を述べた後、恐らく、古歌の心・詞や花材の本意のままではなくという考えを媒介させて、「心を先とし」「珍しき節をもとめ」「詞をかざりて詠」まれた歌が秀歌であるとしている。このように、古歌が培ってきた和歌固有の詞や心をとりなして、言い慣らされ言い古されたままにではなく、新しい着想珍しい趣向で詠むことによって、その歌は感興を喚起するのだという考えが、俊頼歌論の基底に存在している。


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