Ⅱ部 基俊と基俊の歌論 二 基俊歌論 3 秀歌論

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 基俊は、いままでみてきたように、証文本歌をあげ歌枕歌材の本意をとなえて論難することが多く、一つの欠点もあげずに積極的に評価する例は少ないが、少ない中からいくつか拾いながら、基俊歌論における和歌本質論さらには秀歌論を明らかにしてゆこうと思う。

 

 元永元年『内大臣家歌合』

  時雨 一番 左(皇后宮摂津公)

夜もすがら嵐の音にたぐひつつ木の葉とともに降る時雨かな

 「木の葉とともに降る時雨かなと、心にしみてをかしう思い給ふる」と基俊は絶賛する。しかしながら、これは、単に、証文本歌や歌材の本意に叶っていることを、「をかし」とか「心にしみて」と評しているのではない。一晩中、嵐の音に伴って、落葉の音が時雨の音と分かちがたく聞こえてくるのが、この歌には、一晩中寝入ることもできずにその音に聞き入っている人がいるはずである、と基俊は更に分け入って進んでいる。その人は、辛い人を恨んでいるのか、よそにのみ見る恋に苦悩しているのか、いずれにせよ寂寥を掻き立てられずにはいられない、というふうに読み込んでいるのが、基俊のあの判詞であると考えるべきだ。

 

 同七番(定信)に対する基俊判詞も、事情はまったく同じである。

音にさへ袂を濡らす時雨かな槇の板屋の夜半の寝覚に

  基俊の判詞は「槇の板屋の夜半の寝覚の時雨は、殊にめざましく聞き侍るものかな。袂濡るらんもいとをかしく侍り。」これも、単に、「時雨の音にさえ涙をさそわれてしまう」という趣向を評価しているのではない。基俊が感じ入っているのは、夜半に寝覚め時雨の音にさえ涙を誘われてしまう人の物語的現実にであり、その人の境涯が身にこたえて髣髴してくると評しているのである。

 一の3「歌論の対立(2)」で、基俊の肯定評の特徴から、基俊の批評方法を鑑賞批評だとしたのは、実は、このように歌の詞を媒介にして物語的現実に分け入って行くことであると言うことができる。

 

 ここで、他の歌合からも例をひいてみよう。

 保安二年 関白内大臣忠通歌合

  恋 十一番 雅光

さもあらばあれ涙の川はいかがせむあひみぬ名さえ流さずもがな

  判詞は、「左歌あひみぬ名さへ流さずもがなとおもふらむ人もことはりにいとをかしう。…〈略〉…涙の川こそあはれにおぼえ侍る。」と言う。片恋する人の心に立ってみれば、「あひ見ぬ名さへ流さずもがな」と願うのは「ことはり」だろうし、その人の苦悩が思いやられ「あはれ」が掻き立てられる、と感じ入っているのが基俊判詞のモチーフである。

 

 [ 天治元年]花林院歌合

    郭公

     左                        大納言殿

郭公真木のとばり待ちつれど鳴かで明けぬる夏の東雲

     右                        中納言公

時鳥鳴く嬉しさをつつめども袖には声もとまらざりけり

 

 基俊の判詞は、

 右歌、躰且閑麗可以慎記。右歌、詞義秀逸にして、最も余の情あり。かれを詠じこれを吟ずるに、老いの心ともに惑ひぬ。

 となっている。基俊の基準(典拠主義)に叶うならば、その歌が喚起する物語的現実(歌の世界―歌境)にのめりこんでゆく、基俊の歌に対する意識、歌についての観方(歌観)が、「老いの心ともに惑ひぬ」の件に如実に語られている。

  

 基俊の判詞には、殊に積極的な評価を下すときには、個々の歌を具体的観賞的に味わうという傾向が顕著であること、しかし、基準に悖る心詞に対しては扱き下ろしそのものという口吻で斥けていることも以上みてきた通りである。これには、和歌というものは、歌の〈詞〉を媒介にしてある〈物語的現実〉に逢着することだとする基俊の歌観があり、それは、基俊歌論の根底にある考えであると考えられる。そしてこの歌観は、歌を批評するということは、その歌の〈詞〉の喚起力を問い、それが媒介する〈物語的現実〉を追体験し、喚起される感興や印象の色合いを明らかにすることだという批評意識と表裏をなしている。

 

 では、なぜ、歌の〈詞〉がある物語的現実を喚起する媒介になりうるのか、といえば、歌の〈詞〉は古歌の累積によって抽象化概念化され和歌固有の意味や像をもつに至っているからだ。たとえば、「時雨」という〈詞〉は現実の時雨から抽象化概念化された意味や像をもっていて、実際に経験したかどうかに係りなく、「夜もすがら」等の語と結びつくことによってある物語的現実を喚起するための媒介になるのだ。そのことこそが、和歌が成立する根拠である。それ故に、証文本歌から外れた詞・新語・綺語・誹諧之躰は厳しく斥けられなければならない。なぜなら、和歌の世界が成立する根拠を否定しかねないからである。「いと見どころなく、誹諧之躰の言葉ゆかぬにてこそ侍らめ」「いふにもたらず」「近極近俗」「和歌の躰たらくはかかる言葉をばいかにまれ去るものにてぞある」などの、歌の〈詞〉に対する酷評そのものである評言は、基俊歌論にとっては、和歌の成立の根拠に係るものだということの表現であったのである。

 

(注) この歌合の証本(廿巻本)の表書の歌合本文の判詞と裏書本文の判詞を、それぞれ基俊判・俊頼判であるとする説が行われてきた。しかし、小松正氏(関白内大臣家歌合考―二十巻本裏書は果たして俊頼判か―)『文芸研究』昭和三十三年七月号)が、裏書が俊頼判でないことを論及され、萩谷朴氏(『平安朝歌合大成』一〇五)は、更に、表裏書ともに基俊判であることが確定できると結論付けられた。



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