Ⅱ部 基俊と基俊の歌論 二 基俊歌論 2〈詞〉の論
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基俊の〈詞〉の論は、いままでみてきた〈心〉の論と同じ根から出ている。
1からひき続いて、保安二年九月十二日『関白内大臣家歌合』をみると、
野風・一番・(俊頼)
今朝見れば萩女郎花なびかしてやさしの野辺の風のけしきや
に対しては、「なびかして」という詞は「いみじう褻」である上に、初句から四句の景は「いと見どころなく、誹諧の躰の言葉ゆかぬにてこそは侍らめ」として酷評する。
元永元年十月『内大臣家歌合』
恋 碁盤 左(師俊)
つれなさのためしは誰ぞ誰にても人歎かせむ果てはよし(すぐ)やは
基俊は、この歌に対して、「詞は滑稽のことばにこそ侍らめ。いみじくのろのろしく肚黑げに思いひよりて侍る恋かな」と扱き下ろす。心詞両面について評であるが、言葉の面からみれば、「誰に誰にても」とか「人歎かせて」とか「果てはよしやは」という散文そのものと見間違えそうな用法(表現)を「詞は滑稽のことば」として斥けているようである。
花林院歌合 郭公 二番 左(三郎公)
をちかたや雲井の山の郭公あまつよそにも鳴きわたるかな
これに対しては、「をちかたや」という詞は「近極近俗」で、「和歌の躰たらくは」このような詞をどんな場合だって避けるべきであると断じ、一首の心(内容)としては、「言ひなれて」聞こえそうな点には一言さえも言及せずに終わっている。基俊にとっては、「をちかたや」という一語によって、他に取り所があったとしても、歌の前提を犯し、つまりは、評価の対象にすらならないとまで言っていいほどであったようだ。同じ歌合でも、他に、桜一番左の「うはのそらにすててけるかな」を「義幷言俗類にいでず」とし、同六番右の「からめられぬる」を「いとおびただしき言也」として何れも負に判決している。
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