Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 一 俊頼と基俊の対立 3 歌論の対立(2)
👆前のページ「Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 一 俊頼と基俊の対立 2 歌論の対立(1)」👆
次に、これまでの追認になるかもしれないが、さらに資料を詳細に分析することによって、俊頼・基俊の歌論を明確にしてゆきたい。
歌論の判詞は、左右の歌の優劣を判決するもので、その根拠を示すものであることは言うまでもない。その優劣の判決がどのような規準によってなされるかは、様々な場合がある。萩谷朴氏は、『平安朝歌合大成』「三〇五、保安二年九月十二日、関白内大臣忠通歌合」の「私的評価」の項で、この歌合での基俊判詞の批評規準を、次のごとく分類されている。
イ 印象批評に属するもの
a ことなる難なきものをよしとするもの
b 歌柄を論ずもの
c 歌ざまを論ずるもの
d たけたかし
e 力なし
f おもへるところあり
g 一の体を得たり
ロ 歌意の適切さを論じたもの
ハ 表現の洗練を要求するもの
ニ 古歌に等しい風韻を讃えたもの
ホ 本歌に執するを斥けたもの
ヘ 用語の合理性を要求するもの
ト 綺語を排し証歌を要求するもの
チ 俗語・新語を排するもの
リ 歌柄を指摘するもの
ヌ 歌合の判例を引用するもの
ル 証歌を挙げたもの
荻谷氏の分類は委細を尽くしており、基俊の「批評規準」を網羅している。ここで、こうすれば元も子もなくなることだが、この基準をもっと大まかにみてみると
内容(心)に関するもの…イ~ホ
表現(詞)に関するもの…ヘ~ル
と、一応考えてみたい。もちろん、歌 = 表現の批評であるから、心と詞の両者に截然とすることはできないが。
ここで、俊頼・基俊の判詞が、「こころ」(内容)「詞」(表現)の何れについての表現になっているか、殊に勝劣を判決する根拠になっていると思われる部分は何れを評価しているのか、さらに、それが該当する歌の肯定評になっているのか否定評になっているのかを調べてみる。但し、先述したように、個々の評言が「心」だけ或いは「詞」だけに限定して言及していることはむしろ稀であり、どちらにポイントを置いているかということになる(注3)。
「詞もとどこほりたるやうに見え侍り」のように明確に「詞」と記してある場合は、「詞」に関する否定評とした。しかし、そのような例は少なく、「翁さびゆくといへること、たしかに知らぬことなり」のように詞とも心とも断っていないが、前後の文脈から判断して、「たしかに知らぬことなり」の部分を、「詞」に関する否定評とした。さらに、心・詞両面に等しくポイントをおいていて分離するのが不適だと判断されるものを、「心・詞」の項に、その他判断しがたいものや歌合の作法に属するものなどを、「その他」の項に分類した。
【資料】 元永元年内大臣家歌合
〔資料〕から、各項における両者の特徴をつかみ取り、両者の歌論の骨組みを築く端緒を得たい。
(1、 心)
〈心〉に関する肯定評でまず目につくことは、基俊の評言が数としても表現としても多彩であるあることである。数の上では、俊頼対基俊 = 12対24で、基俊が俊頼の2倍になる。それと対照的に、俊頼の評言は「をかし」「さもあることと聞こゆ」など、歌合判詞に常套的ないわば概念的な表現が目立つ。基俊にも「いとをかしく侍り」4例があるものの、〈心〉を肯定的に評価する表現は実に多彩である—————「心にしみて」「めざましく」「ことはりとぞ」「いま少し心細く」「いま少しやさしうぞ」等、その他、個々のうたの〈心〉を具体的に評価・批評しているが、まとまった評言となっていないものはこの資料に採らなかった個所は多い。俊頼が概念的批評とすれば、基俊は鑑賞批評的方法をとっているといえる。これは、両者の歌論のいかなる相違に基づくものか、これだけの資料から推し量ることは難しい。今後の課題の一つとなる。
両者に共通する評言としては、俊頼の「さるもあることと聞こゆ」「かやうにこそは侍らめ」であろう。この評言は、歌題の心を適格にとらえ、歌材の本意に叶っていると認められる歌について与えられていると考えて間違いない。歌合判詞として常套的な判詞でもある。
一方、否定評で、俊頼の「おぼつかなし」の8例が特徴的である。これに対して、基俊は一度も使用していないが、両者からこれに類する評言を拾っと見ると、
俊頼 たしかに聞こえぬ(1)
心も得ず(1)
心たがへり(1)
事たがひぬ(1)
首尾相たがへり(1)
基俊 心得がたく侍り(2)
事足らぬ心地し侍れば(1)
となる。〈心〉の曖昧さ矛盾を指摘する評言が、俊頼判詞に頻出しているという事実は、俊頼歌論を解く一つの鍵になりそうである。
さらに、俊頼に顕著なのは、「珍しからず」という評言と、その範疇にあると考えられる次の評言である。
ふるなれば(7)
珍しからず
なにともなし
させる事もなく
無下にあらはなり
聞き馴れ侍
したる事なし
さらに、肯定評からこれに対応すると考えてよいものを抜き出すと、
思ひかけぬ様なれど
巧みに面白けれど
である。これら「珍しさ」を求める評言の頻用は、「新風志向」(関根氏)の俊頼という通説を裏付けるものであろう。
ところで、基俊にこの種の評言を拾ってみると、
ふるめきたれど(2)
珍しげなく侍れど(1)
の三例と少ないうえに、いずれも「ど」という逆接の助詞を使用してその歌のけっていてきな「疵」にならないという含みで評している。その内容は今はおくとしても、「珍しさ」すなわち新しさを求める、俊頼・基俊の距離は明白である。
俊頼が「珍しさ」を積極的に評価しているならば、基俊はうたの〈心〉に何を求めているのだろうか。〈心〉の否定評をみると、
いまだ見給はず(2)
思ひかけず(1)
題の心深からざれば(1)
いみじきひがめなり(1)
いみじくのろのろしく肚黑げに思ひよりて侍る(1)
が一群の評言をなしている。これは、俊頼とは対照的に、証文本歌を求め本意を尊重するリゴラスな典拠主義と言うべき批評原理を想定することができる。これと対応する評言を〈心〉の肯定評から抜き出すと、
(時雨は)かやうにこそは侍らめ(2)
古き歌にはかく詠みて侍れ(1)
いま少し聞き馴れたる心地ぞし侍る
となる。
(2、 詞)
〈詞〉の項をながめていると、ここでも、俊頼・基俊両者の相違はかなり顕著である。俊頼に特徴的な表現は次のようなものである。
文字づかひなど優なれば(1)
文字づかひ幼きなり(2)
次第あしき心地ぞする(1)
すべらかに下らず(1)
なだらかに聞こえ侍らぬものかな(1)
耳にとまる心地すれど(1)
すへてが〈詞〉に関するものだというには問題はあろうが、俊頼が、「文字つづき」(表現)に格別の関心を持ち、「すべらか」ないしは「なだらか」さを庶幾したことは疑うべくもない。
一方、基俊の評言を特徴づけるなら
重言とてわろきことにぞして侍る(2)
聞きなれぬやうに覺ゆれば(1)
いと詠まほしき詞とも覺えぬ(1)
滑稽の詞にこそ侍めれ(1)
などをあげることができる。もちろん、「詞もとどこほりたるやうに見え侍る」というような評言は、必ずしもリゴラスな典拠主義、伝統的な歌語規範からする批判ではないが、前後の文脈からやはりその批評原理から抜け出ていない例は少なくない。
(3、心・詞)
「歌柄」「姿」「體」の解釈に疑問は残るが、俊頼・基俊両者のこの項の相違をごく大雑把に関賀れば、まず俊頼には2の項でみた「すべらか」「なだらか」に通じる評言が多い。
なだらかなり(2)
歌柄なだらかなり(2)
歌柄すべらかなり(1)
文字つづきこはげにぞ聞こゆる(1)
體詞優ならず(1)
基俊の評言で目につくのは、「歌めき侍れど」5例であろう。これだけからは「歌めく」の具体相は分からないが、1・2から推し量ってみれば、和歌の伝統的な規範を踏まえて詠まれた歌に関しての評言であるといえそうである。しかし、確定的に言い切るにはまだ検討が必要である。
(4、その他)
この項は、晴れの歌(歌合)の一定の基準作法を問題にしたものを主としている。ここで、注目しておくべきなのは、基俊はもちろんのこと、「新風思考」であるとと考えられる俊頼も、
古歌なくば極めて悪しし(3)
聞えぬやうに覺え侍るかな(1)
萬葉集に詠めることたしかにも覺えず(1)
本文に違ひたるやうに見ゆる(1)
などにみられるように、証文本歌などの典拠や和歌の伝統的な規範性を無視したり否定しているわけではないということである。
恐らく、和歌が和歌として成立する根拠———三十一文字という音数律はもちろのこと証文本歌や本意などの伝統的な規範性については、一定の共通の基盤に立っていた。ところが、その基盤から具体的に歌を詠みそれを評価することになると、両者の歌観(歌論)は微妙に、時に相容れ難く食い違っている。このような現象はどのようなことであろうか。
【補、資料】天治元年三月奈良花林院歌合(俊頼基俊共判)
コメント
コメントを投稿