Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 一 俊頼と基俊の対立 2 歌論の対立(1)
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俊頼の歌論をみるには、まず『俊頼髄脳』という歌論書があるが、必ずしも系統だった記述にはなっていない。また、基俊にはそのような歌論書は述作していならしい。そこで、歌合の判詞が重要な資料となってくるが、現在、両者の判詞が知れるのは次のようである。
俊頼判 長時元年五月 左権権中将俊忠朝臣家歌合
同 長時二年七月 俊頼女子達((無名)歌合
同 天仁二年冬 右兵衛督師頼歌合
基俊判 永久四年八月 雲居寺結縁経後歌合
共判 元永元年十月 内大臣家歌合
基俊判 保安二年九月 関白内大臣家歌合
共判 保安三年二月 無動寺歌合
基俊判((天治)元年三月) 奈良花林院歌合
俊頼判((天治)元年) 永縁奈良房歌合
同 大治元年八月 摂政左大臣家歌合
基俊判 長承三年九月 中宮亮顕輔家歌合
基俊/顕仲判 長承四年八月 家成朝臣家歌合
そこで、両者の歌論の対立をみるうえで、とりあえず、俊頼・基俊共判の歌合を検討するのが都合がよい。共判の歌合における両者の判決の結果について、関根慶子氏がはやく言及されている(注1)。関根氏によれば、
共判の歌合 内大臣 奈良
判決の一致するもの 12 13
勝負の相反するもの 7 5
持と勝負とに分かれるもの 16 15
合計 36 35
(論者注…表の形式は変更させていただいています。)
となるが、この数字は勝負の記載がない番の判詞によって若干の出入りは考えられるが(注2)、大勢を知るうえで十分である。関根氏はこの数字から、
右によると、俊頼基俊の判決が一致した場合は各歌合とも約三分の一に過ぎず、この数字の示す大勢だけからいっても、両人の意見の相違はうかがわれるのである。而して、数年を隔てた両歌合に於いてほぼ同様の数字を示していることは、この対立が単に偶発的に表れたものではないことを意味している点に注目すべきあろう。それに、たとえ判決は一致してしてもその歌論的根據は相違する場合も考えられるわけで、なお仔細に判詞の検討がなさねばならない。(傍線は論者)
とされている。関根氏が言われるように、判決が一致したものでも、その「歌論的根據」はほとんどといいほど異なっている。
この辺りの事情を元永元年十月内大臣家歌合から数例をみてみたい。
(1)
時雨一番左 共勝
夜もすがら嵐の音にたぐひつつ木の葉と共に降る時雨かな
俊 心も詞も珍しからねどさせる難見えず
基 木の葉とともに降る時雨かなと、心にしみてをかしう思ひ給ふる
(2) 時雨十一番 共勝
初時雨おとずれしより水莖の岡の梢の色をしぞ思ふ
俊 珍しからねどすべらかに聞こゆ。色をしぞ思ふ ぞ古きことよと、耳にとどまる心地する。されど水莖など詠まれたればにや、勝りてぞ見ゆる。
基 時雨はかようにこそは侍らめと思ひ給ふる。岡の梢の色を思ふ
などいへるも、いひ馴れてをかしさ勝りたるにや。
(2)
戀三番左 共勝
岩沼の下はふ蘆の根を繁みひまなき戀を君知るらめや
俊 いとをかし。させること見えず
基 いま少しやさしうぞ見給ふる。
両判とも勝としている番で、とりわけ両者の判決の根拠が明らかに異なるものを拾ってみた。(1)では、俊頼は、「嵐」―「木の葉」―「時雨」という常套的な趣向を「珍しからず」としなから、右歌のような欠点が見受けられないので、勝としたにすぎない。それとは対照的に、基俊はその趣向を「心にしみてをかしう思ひ給ふる」と讃嘆し積極的な評価を与えている。
(2)でも、俊頼は「古きことよと耳にとどまる心地する」とさほど評価しているわけではない。それに対して、基俊は「時雨はかやうにこそ侍らめ……いひ馴れてをかしさ勝りたるにや」と推賞する。
(3)では、俊頼が「いとをかしき」と積極的に評価する。有心の序とも言うべき上三句の斬新さを評価しているらしい。基俊の場合、右歌より「いま少しやさしうぞ見給ふる」という評価にすぎない。
ところで、両判が相反する番では、両者の歌論の立脚点の相違は一層際立っている。
(3)
時雨・三番
左 俊勝
時雨には色ならぬ身の袖笠も濡るれば薫るものにぞありける
右 基勝
冬くれば散り敷く庭の楢の葉に時雨おとなふみ山邊の里
俊 (左歌ハ)大方歌柄はなだらかなり。後の歌は古き歌を悪しざまに取りなしたると見ゆる。楢の葉の散り敷く庭とこそいふべけれ。散り敷く庭の楢の葉と侍れば、次第悪しき心地ぞする。
基 色ならぬ身ぞいかなる身にかとゆかしく、濡るれば薫るなど詠める、梅などをこそ古き歌にはかく読みて侍れ。なお時雨おとなふみ山邊に、立ち寄りぬべくぞ給ふる。
(5) 時雨・四番
左 基勝
水鳥の青葉の山やいかならん梢を染むる今朝の時雨に
右 俊勝
かき曇り蜑の小船に葺く苫の下とほるまで時雨しにけり
俊 水鳥の青葉の山と續けて、梢を染むるといふほど、無下にあらはなり。次歌、蜑の小船にかからむほど、思ひがけぬ様なれど、過にあらねば勝とや申すべからん。
基 水鳥の青葉の山などいへる、いみじく古めきたれど、右の歌、かき曇り蜑の小船に葺く苫なと侍れど、春雨五月雨などのやうに、つくづくと降る物にもあらぬば、下とほるまでは在るべしと覺え侍らず。なほ梢を染むる時雨少し勝と申すべし。
(4)では、俊頼は、「色ならぬ身」が表現として曖昧であると指摘しつつ、「歌柄」が「なだらか」な点を評価して、古歌を「悪しざまにとりなした」右歌を斥け、勝としている。基俊は、俊頼が難点として指摘した「色ならぬ身にかとゆかしく」として勝とした。
(5〉
では、俊頼は、左歌の着想・趣向の常套的な陳腐さを(無下にあらはなり)と一蹴。右歌のいささか意表をついたと感じられる着想・趣向を、「過にあられねば」として勝とした。ところが、基俊は、その右歌の着想を時雨の本意に悖るとしてとらず、右歌を「古めきたれど」「少し勝る」とする。
以上の比較から両者の歌論の一端を瞥見することができる。俊頼の評言には「珍らかしからねど」「古きことよ」などか目立ち、古めかしいよりは、新奇な着想の方が、より勝るとする傾向が顕著であるようだ。基俊の評言を代表させるのは「言ひ馴れて」というフレーズであろう。歌題をよく心得て歌材の本意をわきまえて伝統的な着想・趣向・詞の基準を逸脱しないことを、「言ひ馴れて」と評しているらしい。
さらに、もう少し細部に目をやると、「すべらかなり」「なだらか」「次第しき」という評言が俊頼の歌論に書くことができぬ要件らしく思われる。それと同時に、(4)の左歌で「色ならぬ身」の難点を指摘したり、左歌では語順の不適を指摘したりして、表現に対する意識が鋭敏であるようだ。一方、基俊の表現に対する評言は、典拠先例を求める傾向が強そうである。
これだけの資料からは、確定的なことは言えないが、両者の判詞が比較的対立的なものから、両者の歌論の傾向、大方の相違をはかっても大過はないようだ。
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