Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  五 公任歌論の基底

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 これまで公任歌論の頂点を意味する〈あまりの心〉とは、どのような歌の、いかなる美を指しているのかを検討してきた。では、その〈あまりの心〉を支える基底が何であると考えられているのか。各品等を検討することによって、公任歌論のパースペクトに接近したい。

 

 まず、下品からみてみたい。下下は、「詞とゞこほりて()かしき所なき也」として積極的な評言は見当たらない。

 

i1 世中のうきたびごとに身をなげば一日に千たび我や死にせん

i2 あづさ弓ひきみひかずみこずはこずこはこそはなどこずはそをいかに

 

 二つの例歌は、ともに、心を直接に、というより、露骨に吐露していることが、まず、公任にすれば「をかしき所なき也」と評せざるを得ない。また、i1歌の「我や死にせん」というような歌語としてふさわしくない言葉、i2歌の同音の反復の紛らわしさが、耳障りに感じられ「詞とゞこほりて」という評となっている。さらに、歌としての着想・趣向からも評価することが出来ないと考えられている。つまり、憂き世を嘆くのに、一日に「千たびも死ぬ(i1歌)」とか、片恋を詠むのに、「相手が来ないのならそれで仕方がない、よそから見ていよう(i2歌)」という着想・趣向は、大凡公任の時代の美の規範からはずれていた。

 

 下中は、「ことの心むげにしらぬにもあらず」と評して次の例歌をあげている。

 

h1 今よりはう()てだに見じ花薄ほに出づる秋はわびしかりけり

h2 わが駒ははやく行きこせまつち山待つらん妹を行きてはや見む

 

 h2歌は〈秋の愁い〉をいうのに、「侘びしさを感じさせる薄は植えまい」と具象的な材を通して表現する趣向をとっている。h2歌は、「まつち山」という歌枕を、「待乳山を駒で越す」と、「マツコトニソウ」(「和歌初学抄」)枕詞的な用法との二重に利かせる趣向をもっている。しかしながら、この二首の下中という位置づけから考えてみると、「ことの心むげにしらぬにもあらず」(注1)という評言は、h1、h2歌の趣向について言われているというよりも、心が比較的素直に詠まれていることを言っていると考えた方がよいのではないか。恐らく、公任の時代の表現水準から見れば、先ほどの趣向はもはや趣向と感じられず、むしろ心が単純に詠み下されていると見えた、と考えた方が自然であろう。

 さらに、「今よりはう()てだに見じ」という主観性の強い詠み口(詞)や、「まつち山」―「待つらん妹」などの古歌詞的な言葉は、公任の時代の和歌の発想や美の基準の遙か外延にあるものと見られたのであろう。

  

  下上 わづかに一ふしある也

g1 吹くからに秋の草木のし()るればむべ山風をあらしといふらん

g2 あらしほの鹽のや()あひに焼く鹽のからくもわれは老いにける哉

 

 「一ふしある也」とは、g1歌では「あらし」が、山風が草木を「あらす」という意と「山」「風」の漢字二字が一つになって「嵐」となったという両意に掛ける機知を、g2歌では、「からく」を導く上三句の序詞の巧みさ、というよりその斬新さを指していると考えて、恐らく間違いない。g1歌には「嵐への驚き」、g2歌には「老いの嘆き」という心が歌のテーマになっていることは言うまでもないが、この二首の眼目はその心が序詞や掛詞の(修辞的な虚構)のフィルターを通して表現されていることにある。注目すべきなのは、公任は、上下のように心情が素直に詠まれている歌よりも、〈修辞的な虚構〉の回路を通して心が表わされている歌を上位に置いていることである。

 

 中下は、「すこしおもひたる所ある也」として、次の二首をあげている。

 

f1 昨日こそ早苗取りしかいつのまに稲葉そよぎて秋風ぞ吹く

f2 われを思ふ人を思はぬむく()にやわが思ふ人の我を思はぬ

 

 評言の「すこしおもひたる所」は、古典体系頭注によれば、「思い得た、着想のすぐれた所」としている。稲葉が風にそよいでいるのを見て時の推移に驚いたり(f1歌)、恋する自分の心を自分で眺める自省的な心(f2歌)を、三十一文字に詠み込むには、一般的には技巧や趣向と呼ばれている〈修辞的な虚構〉の累積によって獲得された時代的な表現水準を前提にしている。この例歌のように、一見何でもないように見える事象からある普遍的な―新しい古いを感じさせない―心を詠い得ていることを、公任は「おもひたる所ある也」という言い方で評せざるをえなかったのでないだろうか。

 

 中中、すぐれたる事もなくわろき所もなくてあるべきさまをしれる也

e1 春來ぬと人はいへどもうぐひすの鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ

e2 いにし年ねこじてう()しわが宿の若木の梅は花咲きにけり

 

 「あるべきさま」(注2)とは、恐らく、何(心)を、どう(詞)詠むかが叶っているという意味である。何に叶っているのか。e1歌は、「うぐひすの鳴くのを待つ心」を「聞かない限り春が来たとは思わない」という趣向で詠んでいる。また、「梅を愛でる心」を「つい先年植えた若木が、初めて花開いた」という趣向が、e2歌の眼目である。この二首の心は、和歌のそして平安貴族達の規範的な類型美に叶っており、しかも、和歌固有の〈修辞的な虚構〉によって過不足なく詠いえている。そのことを、「すぐれたる事もわろき所もなくあるべき様をしれる也」と評したと見てよいだろう。

 

 中上、心詞とどこほらずしておもしろき也

d1 立ちとまり見てを渡りらん紅葉葉は雨と降るとも水はまさらじ

d2 遠方に萩刈る()のこな()をなみねるやねりそのくだけてぞ思ふ(注3)

 

 「おもしろき」と評されるのは、この中上ともう一つ上下である。「おもしろき」とはどういう概念であり、公任歌論にとって何を意味するのだろうか。さらに、中上と上下との差異はどこにあるのだろうか。これまでの筆法を少し変えることになるが、続けて上下を見ると、「心ふかからねどもおもしろき所ある也」として次の二首をあげる。


c1 世中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし

c2 望月の駒引きわたす音す也勢多の中道橋もとどろに

 

 「おもしろき所」の指すものは、まず、d1歌の「河に降りかかる紅葉」を雨に喩え、増水することはないという屏風歌(注4)の機知であり、d2歌では、五句目の「くだけてぞ思ふ」に辿り着くまでの序詞表現の趣向であると考えてよいようだ。また、c1歌では、桜花への哀惜の深さを逆説表現によって―まさに〈修辞的な虚構〉をもって深めている巧みさを、c2歌では、「望月の駒が勢多の中道の橋をとどろかす」という趣向として目新しい叙景を、「おもしろき」と評しているものと考えられる。さらに、この〈おもしろし〉は、下上の〈一ふし〉を外延に含み持つ概念であるとみてよいようだ。

 

 さらに、「河に降りかかる紅葉」とか「桜花を哀惜する心」とかは、和歌にとって、また、貴族の嗜好する類型的な美意識にとっても叶っていると感じらる。

 ところで、「心詞とどこほらず」(中上)と「心ふかからねども」(下上)の差異はどこに在るのだろうか。ともに趣向・着想の巧みさや斬新さを〈おもしろし〉と評価したが、恐らく、叙心の深さや景としいのリアルさやニュアンスの深さから、上下を中上より上位に位置づけることになったのではないか。

 

 これで、独断的にすぎる仕方であるが、上上から下下までの「九品」を俯瞰したことになる。ところで、「九品」とは、仏教の九品蓮台を模したもので、悟性の段階を和歌の優劣に対応させて九段階に品等化しているものである。今まで見てきたように、それぞれの品等には短い評言と二首の例歌があげてあるのだが、初めに、和歌を評価する基準として九段階の品等を示そうとしたものか、あげてある例歌を優劣によって品等化しようと試みたのか断定できないが、前者であると考えるのが自然であろう。

 しかし、それにしても、抑々、和歌の批評基準を九段階に分けて定式化するなど可能であろうか。というより、そのような試みに意味があるのだろうか。この試みの背後には、『古今集』成立以前から歌合において歌を戦わせ勝負を判決することが行われ、評価の基準を定式化させたいというモチーフがあったことは考えられる。が、しかし、このような試みは奇妙にみえる。

 この試みに意味を探るためには、ある媒介項を設ける必要があるようだ。それは、ひとつには、個々の和歌が表現としてどの程度の普遍性を持ち得ているかということであり、もう一つは、時代的な言語(表現)水準から勘案してみるということである。このような視点から「九品」の品等を整理すれば、次のようになる。

 

下下 〈心〉が類型美を外れている。

下中 〈心〉が直に詠まれている。

下上 〈心〉が〈修辞的な虚構〉を通して表出されている。

中下 〈心〉や着想が優れている。何〈心〉をどう〈詞〉詠うかが叶っている。

中中 何(〈心〉)をどう(〈詞〉)詠うかが叶っている。

中上 趣向が優れている。

上下 趣向が優れている。叙心の深さ、景のリアルさが秀抜である。

上中 〈あまりの心〉がある。

上上 〈あまりの心〉がある。規範美の極限である。

 

 

(注1)            古典体系頭注「ことがらの情(歌の心をいう)を全く知らないのでもない。」

(注2)            古典体系頭注「歌として当然あるべきさま、定家十体の「事可然様」に近い意か」

(注3)            『拾遺集』(巻十三)では、初句「かの岡に」。「ねりそ」は、『八代集抄』によれば、「かれたる枝をねぢりよりてゆはんとするよしか」

(注4)            『古今集』(巻五 躬恒)詞書「亭子院の屏風歌の絵に川渡らんとする人の紅葉の散る木のもとに馬をひかへて立てるをよませたまひければつかうまつりける」



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