Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  六 姿〈きよげ〉の論

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 『和哥九品』と較べて、『新撰髄脳』は秀歌の条件などの記述が多く、公任歌論を窺うには欠かすことはできない。

 『新撰髄脳』の歌論的意味については、〈心〉と〈詞〉に加えて〈姿〉をはじめて立言したこと(注1)、歌の評価は時代によって変わりうること、歌病論の教条性を棄てたこと(注2)など、従来言われてきた。

 この書は、まず、「うた」は五七五七七の三十一文字からなると、初学者のための実作理論書らしさを窺わせる記述に始まり、

 

 凡そ歌は心ふかく姿きよげに、心に()かしき所あるを、すぐれたりといふべし。

 

と、和歌本質論を続けている。これは、秀歌の条件として、(a)心深く、(b)姿きよげ、(c)心にをかしき所ある、の三つが考えられているとみてよい。

 

 次に、実作する際に当面する問題について、どう考えればよいかの、いわば、いわば詠作手法と言うべき論を述べている。

  

 事おほく添へくさりてやと見ゆるが〔いと〕わろきなり。一すぢにすくよかになむよむべき。心姿相具する事のかたくは、まづ心をとるべし。終に心ふかからずは、姿をいた()るべし。そのかたち(〔すがた〕)といふは、うち〔聞き〕きよげにゆ()ありて、歌と聞こえ、もしはめづらしく添へなどしたるなり。『新撰髄脳』

 

「心姿相具する」云々以下のセンテンスは、実作上の具体相として、(1)心姿相具するもの、(2)心ふかきもの、(3)姿をいたはるもの、の三つの段階をあげていることになり、これはそのまま、歌の優劣を見定める基準と読み替えても差し支えないと思われる。

 また、(1)の「心姿相具するもの」とは、詳述すると先の(a)(b)(c)の条件を満たすものと考えられているようだ。この条件をすべて満たしていると考えられる歌が、『和哥九品』の上上及び上中の〈あまりの心〉ある歌ということになろう。上下は、「心ふかからねどもおもしろき所ある也」と評しており、心姿相具しているけれど〈あまりの心〉にどうしても欠ける、と読みとっても良さそうである。

 

 それはともかく、公任歌論を見てゆく上で落とすことが出来ないのは、〈あまりの心〉の他に、「心に()かしき所ある」「めずらしく添へ」「一ふしにてもめづらしきことばを詠みいでん」という記述である。これらは、秀歌の条件(c)「心にをかしき所ある」に対応している。また、『和哥九品』上下と中上の評言「おもしろき」に通じる言葉でもある。

 公任が関わった歌合はいくつかあるが(注3)、その中で公任自身が判者を務めたと言われるのは、長保五年五月十五日左大臣道長歌合であるが、勝負が残されているのみで判詞は伝えられていない。


 〈をかし〉という評言が歌合の判詞に使われているのは、時代を遡るが、古今集撰者時代に当たる仁和元年(八八五)年に催されたとされる『民部卿行平歌合』をあげることができる。

  民部卿行平歌合 春 3月 十番

   左

  花見つつ惜しむかひなく今日暮れて他の日とやあすはなりなむ

    右

  今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の蔭かは

 乱れ咲く桜ではあるが、三月、ゆく春のけはいはいかんともしがたい―題の心はそういうことであろう。その心を、左歌は、「明日はもう桜のないまったく別の春になるのだろう」と、右歌は、「明日になればすぐ桜が散って夏になってしまうわけではないが、桜の木の下を立ち去りがたい」という趣向で詠んでいる、その趣向を〈をかし〉と評していると考えてよい。


 次に、公任の時代より百年ほど下る、天徳四年(九六〇)年の『天徳内裏歌合』には、〈をかし〉の用例が九カ所存在する。そのうち幾つかを拾ってみたい。

  天徳内裏歌合 二番 鶯

   左                         (源順)

  氷だにとまらぬ春の谷風にまだうち解けぬうぐひすのこゑ

 判詞は、「左歌心ばえいとをかし」と絶賛に近い褒め方をしている。上句の〈春の谷風に解ける氷〉という歌句の背後には、『古今集』の、


   袖ひじてむすびし水のこほれるを春立つけふの風や解くらむ(貫之2)

   谷風にとくるこほりのひまごとにうちいづる波や春のはつ花(源まさずみ12)


などの歌が、すでに実景を離れた初春の〈修辞的な虚構〉として成立し、流通していた。また同じく、下句は『古今集』の

 

雪のうちに春はきにけりうぐひすのこほれる涙今やとくらむ(詠人不知・4)

梅が枝にきゐるうぐひす春かけてなけどもいまだ雪はふりつつ(詠人不知・5)

春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝にうぐひすぞなく(素性・6)

春やとく花やおそきと聞きわかむ鶯だにもなかずもあるかな(ふじはらのことなほ・10

春きぬと人はいへども鶯のなかぬかぎりはあらじとぞ思ふ (みぶのただみね・11

鶯の谷よりいづるこゑなくば春くることをたれかしらまし(大江千里・14

 などの歌群が、というより、雪が残っているうちに泣きだす鶯とか、桜より先に来る鶯など、〈春を告げる鶯〉という修辞的な虚構なしには成立しない歌句である。つまり、〈鶯〉という歌題さえあれば、〈春を告げる鳥〉という心に向けて言葉を選ぶことができ、そうして成ったものが実際に見聞きしたものかどうかに係わりなく、歌であり詠歌することになるという意識が成立しているのである。そして、〈をかし〉という評言の根拠と対象は、この〈修辞的な虚構〉に存在すると考えて差し支えないといえよう。『新撰髄脳』の「心お(を)かしき所ある」とか「めづらしく添へ」とか、『和哥九品』上下・中上の「おもしろき」などの評言は、この〈修辞的な虚構〉の出来を対象としていると言っていいだろう。

 

 次に、「事おほく添へくさりてとや見るが〔いと〕わろきなり。一すじにすくよかになむよむべき」という記述に注目してみたい。その意は、古典体系頭注によれば、「事柄を多くよんで鎖のように続いているように見えるのが悪い。まわりくねらず率直によむのがよい。」といことである。ここで「わろき」歌と考えられているのは、例えば、『和哥九品』下下の、

  あづさ弓ひきみひかずみこずはこずこはこそはなぞこずはそをいかに

のような歌である。ところで、古典体系頭注は、この記述から、「巧緻な技巧よりも率直にうたうことを重んじている」としているが、この記述は媒介項を設けて読み取らなければならないと思う。

 まず、あまり多くの〈景〉や〈心〉を詠みこんではいけないという指摘であることは言うまでもない。さらに、露骨な〈心〉や、〈心〉の直接評言は避けるべきであると言う意識が背後に働いているとみられる。このような認識は、和歌が三十一文字という決定的に短い詩型であり、その詩型の必然であるという自覚でもある。ところで、率直な表現を重んじたと言うよりも、むしろ、何(〈心〉〈景〉)をどう詠う(〈詞〉)かがかなっていなければならないとしているようだ。何に叶っているのか。例えば、〈恋〉という〈心〉を詠うのに、「思いがかなえられないので、一日千回も死ぬ」とか「来てくれないなら外から見ていよう」とかのように、直接的で露骨でしかも恨みがましく詠んではいけない。ではどう詠むのか。公任の手になる私選集である『金玉集』『深窓秘抄』いずれにも採られている恋歌は次の五首である。

 

イ 我が恋はゆゑ(へ)しらずはてもなしあふをかぎりとおもふばかりぞ(『古今集』611)

ロ ひとしれずたえなましかばわびつゝもなき名とだにしはまし物を(同810伊勢)

ハ いまこんといひしばかりになが月のありあけの月をまちいぬる(つる)かな(同・691素性)

ニ あふことのたえてしなくば中ゝに人をも身をもうらみざらまし

ホ むまたまのやみのうつゝはさやかなるゆめにいくらもまさらざりけり(同・647 不知)

 

 いずれも、〈心〉は露骨にも直接にも詠われていない。逢える日があるならそれを限りと思うだけだ(イ)とか、人知れず関係が切れるのなら、事実無根の噂とのみ言えるものを(ロ)とか、待ち続けたが終に有明の月を見る時までになった(ハ)とか、一層逢えないことがはっきりしているのなら恨むこともないものを(ニ)とか、かりそめの逢瀬はささやかな夢の逢瀬に及ばぬように感じる(ホ)とか詠む。〈心〉(或いは〈景〉)の直接表現を昇り詰めていけば、実は、複雑になり三十一文字の詩型におさまりきれなくなる。『和哥九品』下下の例歌「あづさ弓」の歌がそうである。意味の流れが小刻みに着られ、そしてどこにも流れ込むことなく終わっているように見える。意味や像が断片的にかしか残ってこない。

 これは、どう(〈詞〉)詠むかが叶っていないと考えるべきだ。「片恋」を詠むのに、「一度逢えたらそれが限りであってもよいと思うほど思っている」とか、「絶対に逢うことができないのなら恨むことをしないのに」と詠むのと、「あづさ弓」のように、「逢えないのならそれは仕方がない、外から見ていよう」と詠む、その距離はそれほど無いようで、実は、かなりの懸隔が存在している。この懸隔は、「中そらにのみ物を思ふかな」(古今集481)、「雲のはたてに物ぞ思ふ」(同484)、「わがこひはむなしき空にみちぬらし」(同488)、「そらにのみうきて思ひのある世なりけり」(513)などのように、「片恋」を詠むのに、「空」を媒介にして詠うという〈修辞的な虚構〉との距離であるように思う。つまり、「片恋」の事情や心をくだくだしく述べ立てるのではなく、和歌固有の〈修辞的な虚構〉を通じて〈詞〉を択んでいるかどうかの距離になる。

 ここで、「事おほく添へくさりてやと見ゆるが[いと]わろきなり。一すぢにすくよかになむよむべき」に対する古典体系頭注を、本論者の文脈で修正すると、「和歌固有の〈修辞的な虚構〉を通して、〈心〉を絞って簡潔に表現すべきである。」とすることができる。

 そして更に、『和哥九品』下下の例歌のように、「つらいと思うたびに身を投げれば、一日千回も死ぬことになる」とか「逢えないならそれで仕方がない。外から眺めていよう」などと詠む趣向は、和歌固有の規範的な類型から外れている、という意識が在ったことも述べてきたとおりである。

  

 このようにして、すがた〈きよげ〉に到着することができる。今までを整理するならば、〈詞〉はあまり多くを詠みこもうとせず、和歌固有の〈修辞的な虚構〉を通して表現すること。また、それによって表現される〈心〉は、和歌の規範的な類型美に叶わなければならない。そうした〈心〉が〈詞〉をもって表現された全体が〈姿〉であり、姿〈きよげ〉な歌になると考えられている。

  

(注1)実方清『日本歌論』

     「…公任の姿は古今集序に於ける「さま」の發展の相に於て、彼の獨創的なるものとの結合によって形成されたもの」p1

(注2)「優れたることのある時は、惣じて去るべからず」の件。

 (注3)

  寛和元年八月十日 内裏歌合

  寛和二年六月十日 内裏歌合

  同保元年九月十二日 道長嵯峨遊覧和歌

  同年十一月一日 彰子入内屏風歌

  同三年十月九日 詮子四十賀屏風歌

  同四年八月十八日 法華経二十八品和歌

  同五年五月十五日 道長歌合

  寛弘元年三月二十八日 花山院花見和歌

  寛仁二年一月二十四日 頼道大饗屏風歌

  治安三年十二月十三日 倫子六十賀和歌

  などの歌合、和歌行事への参加がしられている。

 (注4) 廿巻本では「貫之」



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