Ⅱ部 俊頼と基俊の歌論 一 俊頼と基俊の対立 1 序

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 平安後期歌壇の両雄ともいうべき源俊頼と藤原基俊について、鴨長明は興味ある逸話を伝えている。

 

 基俊は俊頼をば、蚊虻の人として、「さはいふ共、駒の道行きにてこそあらめ」といはれければ、俊頼返り聞きて、「文時朝綱よみたる秀哥なし。躬恒貫之作りたる秀句なし」とぞいはれける。(『無明抄』〔俊頼基俊いどむ事〕)

  

 長明は、ほかにも登蓮法師(ますほの薄事)や頼實(頼實数奇)などをあげて、歌人として優れた歌を詠むには並な修行ではかなわず、時には常軌を逸すると思われる歌への執着執心が必要であることを述べている。また、道因入道(道因歌に志深き事)や篤頼入道(俊頼傀儡云事)や橘為仲(五月かつみ葺事)などでは、歌への執着数奇が時には奇行としか見えない言動をとることを、嘲笑交じりに伝えている。

 歌を作り、歌を評価されるという行為が、態度論ないしは人格上の問題としても語りうるという見方が、長明の時代通用していたのであろうか。少なくとも、長明はそのような文脈の中で基俊を語っている。また、長明は先の話題に続けて、雲居寺結縁経宴歌合での一場面を伝えている。俊頼の隠名歌「明けぬとも猶秋風の訪れて野邊の気色よ面變りすな」を、基俊は、「て」が腰折れであると、口を極めて論難した。俊頼は弁解がましいことは何も言わず黙っていると、琳賢が口を開く、


「言異なる證哥こそ一覺え侍れ」といひ出たりければ、「いで 承るらん。よもよろしき哥にはあらじ。」といふに、

  櫻散る木の下風は寒からで

と末の2文字を長々とながめたるに、色眞青に成りて物もいはずうつふきたりける時に、俊頼朝臣は忍びに笑ひける。〔腰句手文字事〕

  

 基俊が「挑む人」であったならば、琳賢は皮肉な人であろうし、俊頼はひどく陰険な人間ではあろう。人柄の上の問題として見れば色々な見方があろうが、むしろ、この挿話はほんとうはもっと別な意味合いをもっているのかもしれない。

 それは、ひとつは、俊頼と基俊の性格とは別のところにある、歌論上の齟齬対立と、さらに、俊頼の歌論への長明の傾倒共感が存在していたことである。ここで試みようと思うのは、古代和歌の行き着いた姿を、俊頼・基俊の歌論とその齟齬対立を明らかにすることによって捉えようとすることである。


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Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  二 余情論の先駆