Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点 二 余情論の先駆
『和哥九品』上品上の評言「ことばたへ」「あまりの心」とは、二首の例歌のどこを指し、何を意味しているのであろうか。
〈あまりの心〉は、『古今集』仮名序の業平評の件「心あまりて詞たらず。」(真名序は「其情有余其詞不足」)を別にすれば(注1)、『忠岑十体』で〈余情体〉として考えられているのを嚆矢とするとみられる。公任より百年ほど前に、忠岑は何を指して〈余情体〉としたのだろうか。公任の〈あまりの心〉とどれほどの共通点と相違を持つのだろうか。
忠岑の漢文の説明によれば、〈余情体〉とは、「詞標一片義籠萬端」とある。例歌五首は、
b1 我が宿の花見がてらに来る人は散りなむ後ぞ恋ひしかるべき
b2 今来むといひしばかりになが月の有明の月を待ち出づるかな
b3 思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり
b4 音羽山せきるゝ水のたぎつ瀬に人の心のえもするかな
b5 わたの原八十嶋かけて漕ぎ出ぬと人にはつげよあまの釣船
である。漢文註の明快さにもかかわらず、この例歌から<余情体>の単一な概念の像を結ぶのは難しい。
例歌に少し立ち入ってみると、b1歌は、『古今集』では詞書に「桜の花のさけりけるを見にまうできたりける人によみておくりける」とある。「桜目当てに来る人は散った後は訪れてくれないだろうから、平生よく訪れるよりも恋しく思われる。」の意であるが、諧謔ともとれるこのような歌のどこに忠岑は〈余情体〉を見たのだろうか。「桜が散った後は恋しく思われる」という意味・内容から心(情)がのこる―〈余情〉としたのではないか、という思いをとらざるを得ない。この思いは、次の例歌b2歌でも同様である。有明の月が出る頃まで待っても来てくれない人を恨みに思う心(情)が残ったままであるという歌の意味・内容に、〈余情〉をみているのではないか。b5歌は、「広々とした大海の数多い島々に向かって、私が漕ぎ出したと、恋人に告げてくれ、漁師の釣り船よ」というのが歌意である。しかし、『古今集』の詞書「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣しける」を頭に置いて読まれたものであろうから、篁の出帆が荒涼とした冬の海に向かっての配流であり、「ひと」とは京に残していく妻を指している、という作歌事情を媒介にして読みとられていると考えてよい。そうすると、配流される篁の悲痛な思いと愛する妻への思い(情)が残ってくる、ということを〈余情〉としたらしい。
ところが、b3歌とb4歌は、これまでの歌とはちょっと違ってみえる。
b3歌については、長明『無名抄』では、「六月廿六寛算が日も、是を詠ずれば寒くなる」と或る人が語ったと記し、「この哥ばかり面影ある哥はなし」と評している。又、俊頼は『俊頼髄脳』で「気高く遠白き(但し、顕昭本では「けだかくおもしろき」)」歌としてこの歌をあげている。
歌意は、「思いに耐えかねて恋人のもとへ向かう道すがら、冬の夜の冷たい川風に千鳥が鳴いている」ということになるが、b1、b2、b5歌でしたような解釈では〈余情〉は導き出せない。この歌は、『拾遺集』(『拾遺抄』でも同様)では「題知らず」になっているが、『貫之集』によると、承平六年春、左衛門督藤原実頼のための屏風歌となっていて、四季の屏風のなかの冬の絵に添えられたものと考えられる。そして、これか゛景のみではなく人事を詠み入れていることに注目してよいだろう。同じ川千鳥を詠んでいる、友則の歌
夕されば佐保の川原の川霧に友まどはせる千鳥鳴くなり(『拾遺集』巻四・冬・二三八)
と比較してみても、「思ひかね妹がりゆけば」の初め二句の着想は卓抜であろう。友則の歌も貫之の歌もともに「面影ある」(俊頼)歌だと言ってもいいような感じがする。ところが、友則歌は、千鳥が鳴いているのは「友まどはせる」からだと判断し、貫之歌は、恋人のもとへ行く道すがら、千鳥が鳴いている、としている。この違いは大きいと思う。「思ひかね」は、単に恋人に会いたい気持ちを抑えかねてであろうか。恋人は待ちこがれているのだろうか。恋人との間にはどのような事情が存在しているのであろうか。これらを判断できるような表現はなされていない。しかし、あたかも様々な思い入れをすべて許すような含みの大きさで、川千鳥の景が詠み下されている。
このように、表現としては直に明示していないが、又それ故、具象性を出来る限り削り落とすこととなり、様々な思いを含み持つことになる歌を〈余情体〉としたのではないかと考えられる。
b4歌も同様で、「ひとの心」を「音羽山せきるゝ水のたぎつ瀬」に喩えていて、「ひとの心」を直接明示しないことによって、大きな含みで浮かび上がらせている。
b3、b4歌は、表現として明示していないが、またそのことによって、様々な解釈を許す含みの大きい心が残って来るという意味で、忠岑が〈余情体〉として庶幾したものと考えて良さそうである。
ただ、このような混乱があるのは、〈余情(体)〉という概念が、この時代には新しく、単一な概念を持つものとして意識されていなかったのではないだろうか。このことは、この忠岑の「十体」の分類基準そのものに範疇上の混乱が存在している(注2)こともひとつの傍証になるだろう。
(注1) 実方清『日本歌論』によると、『古今集序に於ては心と詞とが原則的に説かれ、それが中心をなして居るのであるが、公任に於ては「餘りの心」を認め、心と詞との外に第三の世界を認め、餘余の素地を確定した點は日本歌論史上まことに重大な意義を持って居る。』とされている。
しかし、いわゆる心詞論と余情論とは表現論の中でも範疇が異なることは明確にすべきだと思う。
(注2)
『忠岑十体』の分類基準について論及されているもののうち、山田孝雄氏、久松潜一氏、吉本隆明各氏の論を、ここで便宜的に図式化(但し、吉本氏にかぎっては、氏自身が図式化して示しているのでそれをそのままとる)してみる。
○ 山田孝雄「日本歌学の源流」
形式
用語上 古歌体・両方体
叙述態度 直体・比興体
内容
心深き歌 神妙体・余情体・写思体・高情体
製作の卓犖 器量体
優・艶な歌 華艶体
○
久松潜一「日本文學評論史」
古代歌風 古歌体
今の歌風 直接的表現 直体
写思体
間接的表現 情調歌 神妙体
華艶体
高情体
余情体
器量体
趣向歌 比興体
両方体
○
吉本隆明「初期歌謡論」
(1)
忠岑の基準からみて古歌とおもわれる歌体
(2)
主題・モチーフによる分類
(3)
手法・形式による分類
比興体
両方体
(4) 内容からする分類 余情体
写思体
高情体
器量体
華艶体
★ 三氏の論は、矛盾・対立する部分も少なくなく、そのこと自体が、忠岑の基準設定の混乱ないしは曖昧さを示すことになっていると言えよう。
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