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Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  六 姿〈きよげ〉の論

👆 前のページ「Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  五 公任歌論の基底」 👆 ⇦「目次」へ    『和哥九品』と較べて、『新撰髄脳』は秀歌の条件などの記述が多く、公任歌論を窺うには欠かすことはできない。  『新撰髄脳』の歌論的意味については、〈心〉と〈詞〉に加えて〈姿〉をはじめて立言したこと(注1)、歌の評価は時代によって変わりうること、歌病論の教条性を棄てたこと(注2)など、従来言われてきた。  この書は、まず、「うた」は五七五七七の三十一文字からなると、初学者のための実作理論書らしさを窺わせる記述に始まり、    凡そ歌は心ふかく姿きよげに、心に お ( を ) かしき所あるを、すぐれたりといふべし。   と、和歌本質論を続けている。これは、秀歌の条件として、(a)心深く、(b)姿きよげ、(c)心にをかしき所ある、の三つが考えられているとみてよい。    次に、実作する際に当面する問題について、どう考えればよいかの、いわば、いわば詠作手法と言うべき論を述べている。       事おほく添へくさりてやと見ゆるが〔いと〕わろきなり。一すぢにすくよかになむよむべき。心姿相具する事のかたくは、まづ心をとるべし。終に心ふかからずは、姿をいた わ ( は ) るべし。その かたち ( 〔すがた〕 ) といふは、うち〔聞き〕きよげにゆ へ ( ゑ ) ありて、歌と聞こえ、もしはめづらしく添へなどしたるなり。 ( 『新撰髄脳』 )   「心姿相具する」云々以下のセンテンスは、実作上の具体相として、(1)心姿相具するもの、(2)心ふかきもの、(3)姿をいたはるもの、の三つの段階をあげていることになり、これはそのまま、歌の優劣を見定める基準と読み替えても差し支えないと思われる。  また、(1)の「心姿相具するもの」とは、詳述すると先の(a)(b)(c)の条件を満たすものと考えられているようだ。この条件をすべて満たしていると考えられる歌が、『和哥九品』の上上及び上中の〈あまりの心〉ある歌ということになろう。上下は、「心ふかからねどもおもしろき所ある也」と評しており、心姿相具しているけれど〈あまりの心〉にどうしても欠ける、と読みとっても良さそうである。    それはともかく、公任歌論を見てゆく上で落とすことが出来ないのは、〈あまりの心〉の他に、「心に お ( を ) かしき所ある」「めず

Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  五 公任歌論の基底

👆 前のページ「Ⅰ部  四 公任歌論の頂点」 👆 ⇦「目次」へ  これまで公任歌論の頂点を意味する〈あまりの心〉とは、どのような歌の、いかなる美を指しているのかを検討してきた。では、その〈あまりの心〉を支える基底が何であると考えられているのか。各品等を検討することによって、公任歌論のパースペクトに接近したい。    まず、下品からみてみたい。下下は、「詞とゞこほりて お ( を ) かしき所なき也」として積極的な評言は見当たらない。   i1   世中のうきたびごとに身をなげば一日に千たび我や死にせん i2   あづさ弓ひきみひかずみこずはこずこはこそはなどこずはそをいかに    二つの例歌は、ともに、心を直接に、というより、露骨に吐露していることが、まず、公任にすれば「をかしき所なき也」と評せざるを得ない。また、i1歌の「我や死にせん」というような歌語としてふさわしくない言葉、i2歌の同音の反復の紛らわしさが、耳障りに感じられ「詞とゞこほりて」という評となっている。さらに、歌としての着想・趣向からも評価することが出来ないと考えられている。つまり、憂き世を嘆くのに、一日に「千たびも死ぬ(i1歌)」とか、片恋を詠むのに、「相手が来ないのならそれで仕方がない、よそから見ていよう(i2歌)」という着想・趣向は、大凡公任の時代の美の規範からはずれていた。    下中は、「ことの心むげにしらぬにもあらず」と評して次の例歌をあげている。   h1   今よりはう へ ( ゑ ) てだに見じ花薄ほに出づる秋はわびしかりけり h2   わが駒ははやく行きこせまつち山待つらん妹を行きてはや見む    h2歌は〈秋の愁い〉をいうのに、「侘びしさを感じさせる薄は植えまい」と具象的な材を通して表現する趣向をとっている。h2歌は、「まつち山」という歌枕を、「待乳山を駒で越す」と、「マツコトニソウ」(「和歌初学抄」)枕詞的な用法との二重に利かせる趣向をもっている。しかしながら、この二首の下中という位置づけから考えてみると、「ことの心むげにしらぬにもあらず」(注1)という評言は、h1、h2歌の趣向について言われているというよりも、心が比較的素直に詠まれていることを言っていると考えた方がよいのではないか。恐らく、公任の時代の表現水準か

Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  四 公任歌論の頂点

👆 前のページ「Ⅰ部 二 公任の余情論」 👆 ⇦「目次」へ  では、上品上の例歌( c1、c2歌 )と上品中の例歌は、どのような差異があるのだろうか。上品上の例歌を再度記しておく。   a1   春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみてけさは見ゆらん a2   ほのぼのと明石のうらの朝霧に嶋がくれゆく舟をしぞ    上品上と上品中の差異を言い分けるのは不可能ではないのか。公任の評語によれば、「ことばたへ」(上品上)と「ほどうるはし」(上品中)の差異としてのみ記されている。公任の意図を逸脱してしまうかもしれないが、出来うる限り公任の読みに近づくことが出来る地点まで解釈補遺を拡げていくしかないようだ。    a1歌は、公任はこれを『拾遺集』の巻頭歌にも採っていて並々ならぬ評価を示している。この忠岑の歌は、一見平易に詠み下されているように見えるが、かなり巧みに詠みこなされていると言うべきだ。吉野山がかすんで見える景を、暦の上で立春が来たからだと説明づけている。つまり、眼前の景と暦上の観念を結びつける趣向によってつくられている歌である。このような歌が、どういう意味ですべての頂点に立つ至上の歌とされているのだろうか。  この歌は、立春に歩調を合わせるように、吉野山にはじめて霞がかかっているのを見て驚いて詠んだものだろうか。それとも、吉野山にはすでに幾日か霞がかかっていて、立春という暦上の事実によってはじめて霞に気づいて驚いたのかもしれない。また、『拾遺集』の詞書に「平貞文が家の歌合によみ侍りける」とあるが、抑々、立春の日に霞のかかる吉野山を見たのかどうかも、ほんとは疑わしい。しかし、この一首は、この解釈の可能性の何れにも決定しがたく、むしろ、何れの解釈も許し包み込んでしまう何かがある。この何れも包み込んで景だけが迫り出すように残るのは、景や心のディテールを出来うる限り削り、二三の描線で描くように詠い下すことによってもたらされている。歌に即して言うと、〈春立つ日〉という観念と〈吉野山の霞〉という景が、「や―らむ」という係り結びによって単一に結びつけられている。そして、この結びつきが強い蓋然性を持っているのは、〈立春―霞―吉野山〉が、和歌の、平安朝貴族の基準的な類型美を背景としたインティメートな言葉の連鎖をなしているからである。この平安朝貴族の基

Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  三 公任の余情論

👆 前のページ「Ⅰ部 二 余剰論の先駆」 👆 ⇦「目次」へ     壬生忠岑 の考えている〈余情〉は、「詞標一片義籠萬端」と明解に説明されつつも、一首の意味内容からと、表現されていないが大きなふくみを持った心が残ってくる、という二様が混在していた。  忠岑が「余情体」の例歌としてあげている五首は、b4歌を除いて『金玉集』にも『深窓秘抄』の何れにも採って、公任が秀歌と認めているものである。しかし、公任の〈あまりの心〉と忠岑の〈余情〉とは微妙に違って見える。その違いは、ここで結論めいた印象を述べてみると、一つは、〈あまりの心〉について忠岑のような混乱や曖昧さが無くなり、概念として明確になったことであり、〈あまりの心〉にある種の方向をあたえたことにあるようだ。    公任が『和哥九品』で〈あまりの心〉ありとしたのは、先に挙げた上品上のa1a2歌の他に、上中の例歌二首である。 c1   み山にはあられ降るらし外山なるまさ木のかづら色づきにけり c2   あふ坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒    順序として逆になるが、ここで、c1c2歌から少し立ち入って考えてみたい。  c2歌については、定家著に擬したとされる『愚秘抄』に、公任と高遠の逸話が語られている。病床にある公任のもとへ高遠が訪れる。病気の見舞いではなく、c2歌と高遠自作の      逢坂の関の岩かど踏みならし山たちいづる霧原の駒   とを比較して、「一二反までは、きり原の歌殊に勝りてきこえ侍るが、三四反にもなりぬれば、などやらむ貫之の歌のはるかに勝りて聞こえ侍るは如何なる事やらむ」という質問に答えてもらうためであった。公任は、高遠の歌への執心を褒めて言うには、      此歌の勝劣は貫之が歌はさせるふしもなくなびらかにいひくだせり。霧原の歌は詞のよせ巧みにして、上手ならでは思ひよりがたき類なり。さるあひだ一二反は勝りて聞こゆるにこそ。   『愚秘抄』そのものが偽書であり、公任と高遠のやりとりが事実かどうか疑わしいが、公任の評言のポイントは、技巧を凝らした歌は初めは目立ってみえるが、なだらかに詠みくだした歌には及ばない、ということになる。高遠歌は、『愚秘抄』が言っているように、「たち出づる霧」と「たち出づる駒」の両意に掛ける掛詞を巧みに使っている。とこ

Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  二 余情論の先駆

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👆 前のページ「Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  一 序」 👆 ⇦「目次」へ    『和哥九品』上品上の評言「ことばたへ」「あまりの心」とは、二首の例歌のどこを指し、何を意味しているのであろうか。  〈あまりの心〉は、『古今集』仮名序の業平評の件「心あまりて詞たらず。」(真名序は「其情有余其詞不足」)を別にすれば(注1)、『忠岑十体』で〈余情体〉として考えられているのを嚆矢とするとみられる。公任より百年ほど前に、忠岑は何を指して〈余情体〉としたのだろうか。公任の〈あまりの心〉とどれほどの共通点と相違を持つのだろうか。    忠岑の漢文の説明によれば、〈余情体〉とは、「詞標一片義籠萬端」とある。例歌五首は、 b1  我が宿の花見がてらに来る人は散りなむ後ぞ恋ひしかるべき b2  今来むといひしばかりになが月の有明の月を待ち出づるかな b3  思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり b4  音羽山せきるゝ水のたぎつ瀬に人の心のえもするかな b5  わたの原八十嶋かけて漕ぎ出ぬと人にはつげよあまの釣船 である。漢文註の明快さにもかかわらず、この例歌から<余情体>の単一な概念の像を結ぶのは難しい。  例歌に少し立ち入ってみると、b1歌は、『古今集』では詞書に「桜の花のさけりけるを見にまうできたりける人によみておくりける」とある。「桜目当てに来る人は散った後は訪れてくれないだろうから、平生よく訪れるよりも恋しく思われる。」の意であるが、諧謔ともとれるこのような歌のどこに忠岑は〈余情体〉を見たのだろうか。「桜が散った後は恋しく思われる」という意味・内容から心(情)がのこる―〈余情〉としたのではないか、という思いをとらざるを得ない。この思いは、次の例歌b2歌でも同様である。有明の月が出る頃まで待っても来てくれない人を恨みに思う心(情)が残ったままであるという歌の意味・内容に、〈余情〉をみているのではないか。b5歌は、「広々とした大海の数多い島々に向かって、私が漕ぎ出したと、恋人に告げてくれ、漁師の釣り船よ」というのが歌意である。しかし、『古今集』の詞書「隠岐国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣しける」を頭に置いて読まれたものであろうから、篁の出帆が荒涼とした冬の海に向かっての配流であり、「ひと」とは京

Ⅰ部 公任歌論の基底と頂点  一 序

👆 前のページ「目次」 👆 a1  春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみてけさは見ゆらむ a2  ほのぼのと明石の浦の朝霧に嶋がくれゆく舟をしぞ思ふ    『和哥九品』で、「これはことばたへにしてあまりの心さへある也」として「上品上」にとられた歌である。この例歌と評言は、いわば公任歌論の頂点を示している。ここから公任の嗜好と歌論の核を読みとることができるであろうし、また敷衍してみれば、拾遺時代の和歌の実相をとらえる手がかりになるかもしれない。   しかしながら、『和哥 九品』の手短な評言や、初学者のための手引き書、実作理論書とされる『新撰髄脳』から、公任歌論のパースペクトを得るのは難しい。公任の述作としてほかに、『如意宝集』(断簡)、『深窓秘抄』、『金玉集』などの私撰集、さらに、『前十五番歌合』、『三十六人撰』、『三十人撰』の秀歌撰が知られている。先に挙げた三つの私撰集の歌数は、『如意宝集』54首、『金玉集』76首、『深窓秘抄』101首である。各々に採られている歌を検討してみると、意外なことに、『如意宝集』、『深窓秘抄』、『金玉集』などの私撰集、さらに、『前十五番歌合』、『三十六人撰』、『三十人撰』の秀歌撰が知られている。先に挙げた三つの私撰集の歌数は、『如意宝集』と他の二つとは重複する歌が二首(注1)しかない。これと対照的に、『金玉集』と『深窓秘抄』とでは重複数が53首存している。『金玉集』と『深窓秘抄』とは親近性を持っている、というより、『深窓秘抄』をさらに厳選してできたのが『金玉集』であるといっても過言ではなさそうである。(注2)  公任歌論は、『和哥九品』と『新撰髄脳』さらに『金玉集』とから窺うことになるが、公任自身の少ない評言と例歌から逸脱しない範囲で、解釈補遺する方法をとらざるを得ない。   (注1) この二首は三つの私撰集と重複している。次の二首である。        冷泉院御時屏風に     兼盛      人しれずはるをこそまてはらふべきなきやどにふれるしらゆき                     坂上是則      みよしの やまのしらゆきつもるらしふるさとさむくなりまさるかな(なり) (注2) 山田孝雄『日本歌学の源流』(日本書院 昭和二七年)      「この金玉集は深窓秘抄や十五番歌合や三十六人撰などより一層嚴撰したもので